3-17. 異変
街の季節は、徐々に春から夏へと移ろっていく。
気温が上がれば、人間にとって過ごしやすくなるが、それは食中毒菌にとっても同様。夏は、特に衛生管理が難しくなる季節だ。
さいわい、この街の夏は、日本のような高温多湿の環境ではなかった。
海風の通り道に遮蔽物がなく、すこぶる風通しが良いのだ。おかげで、常に街じゅうを冷たい海風が吹き抜けており、熱や湿気がほとんどこもらない。
とはいえ、油断は禁物。傷みやすい具材は避け、じゅうぶんに加熱して水分を飛ばし、塩分を多めに加えるなど、いっそう気をつけていた。
実際のところ、いくら衛生面に気を遣っても、別に店の評判は上がらない。店で買った食べ物が安全だなんてことは、客にとっては最低条件だからだ。
でも、当たり前を維持するには、絶え間ない努力が必要なのだ。誰にも褒められなくても。
このあたりは、俺がかつて居たIT業界とも重なるところがある。
ユーザにとって、サービスが使えるのは当たり前。トラブルを未然に防ぐ努力をしても、誰にも感謝されることはない。
けれど、ひとたびシステムが止まれば、すぐさまクレームが飛んでくる。世の中とは、常にそういうものなのだった。
「……ヒナ、そろそろ閉めようか」
大口客に昼のまかない弁当を受け渡した後、従業員休憩スペースに居るヒナに声を掛けた。
彼は読んでいた本から顔を上げ、外の様子をちらっと見てから、「そうだね」と同意する。
ヒナがレジ締めをしている間にシャッターを下ろし、ふたりで裏口を出た。
「トーヤ。あとで音読練習するから、聞いて」
「うん。……あれ?」
二階の玄関扉が、わずかに開いているのに気づいた。今朝施錠したはずなのに、鎖が掛かっていない。
「あれっ、マリー?」
階段を上り、廊下を抜けて居間に入ると、彼女はストーブコンロの前にいた。ダイニングテーブルに置かれた鍋から、良い匂いが漂っている。
今日は一日、家族揃って出かける用事があるので店には来ないと聞いていたが、どうしたのだろう?
「おかえり」
「……え、あ、うん」
どうしたの、と聞ける雰囲気ではなかった。ヒナがちらっと俺を見上げる。余計なことを言うなよ、という顔だ。
「お蕎麦、いま茹でるから。ちょっと待っててね」
マリーはぐらぐら沸いている鍋に乾蕎麦を投入した。長めに茹でて、流しに置いた藤製のザルにあげ、深皿に取り分けてつゆをよそった。
妙に重苦しい雰囲気の中、三人で蕎麦をすすった。以前、俺が風邪を引いた時に作ってくれたのと同じ、温蕎麦だった。
あの時は温かくて優しい味だと感じたが、今回は、まったく味がしない。
普段は賑やかな食卓なのに、マリーもヒナも一言もしゃべらないという異様な光景のせいで、味覚に神経が向かないのだ。
何か話しかけていいのかも分からず、終始無言で食べ終えた後、皿洗いを申し出た。
流しで後片付けをしながら、何度かこっそり視線を向けたが、マリーはぼんやりと自分の席に座ったまま、身じろぎもしなかった。明らかに様子がおかしい。
「トーヤ!」
皿洗いを終えた後、ヒナが俺の袖を引いた。
「ヒナ、お菓子食べたい」
「え」
「買いに行こう。はやく!」
もちろん、ヒナがマリーの異変に気づいていないはずはない。ワガママで言っているのではないことは、すぐに分かった。
俺を外に連れ出し、マリーの居ないところでしたい話があるのだろう。急かされるまま、引き出しから生活費用の麻袋を取りあげて、ふたりで外に出た。
◇ ◆ ◇
「今日のお出かけ、お墓参りだって、親方言ってた」
市場への道を歩きながら、ヒナが切り出した。
「お参りに行って、みんなで昼ごはん食べるって。でも、マリーは元気なくて、食べられない。だから、先にひとりで帰った」
さっきまでの沈黙を取り返すような早口だった。俺に事情を伝えたくて、うずうずしていたのだろう。
「マリー、朝と違う服だった。家に帰って、着替えて、店に来たってこと。でも、身体が元気ないなら、家で寝るはず。だから、元気ないのは心。トーヤに気持ちを聞いてほしくて、店に来た。……これが、ヒナの推理」
「なるほど。お母さんが亡くなった時のことを思い出して、落ち込んでるのか……」
俺がひとりごちると、ふと、ヒナが尋ねる。
「……ねえ、トーヤ。ママが居ないのは、悲しい?」
「え?」
「ヒナ、ママを知らない。ヒナが赤ちゃんの頃に、死んじゃったんだって」
握った手に、わずかに力がこもった。
「故郷へ帰った時、お墓参りに行った。姉ちゃんは泣いてたけど、ヒナは悲しくなかった。マリーの気持ち、ヒナには分からない」
俺はその話を聞いて、大学生の頃、母方の祖母が亡くなった時のことを思い出した。
兄から電話が掛かってきたのは、春の日の朝だった。
俺は学部の三年生で、ひとり暮らしを始めたばかり。突然のことで喪服の用意もなく、入学式に着たスーツ姿で、高速バスに飛び乗った。
バスを降りると兄が迎えに来ていて、車中で詳しい事情を聞いた。
祖母は当時、老人ホームに入居していた。朝に起きてこないので職員さんが様子を見に行ったところ、眠るように亡くなっていたらしい。
『ふーん、大往生だったんだな』と思った。
大きな病気もせず、前日まで至って元気だったというのだ。これ以上ないほどに、理想的な最期じゃないか。
ところが実家へ戻ってみると、母親は大泣きして手が付けられない状態であり、自分の感想とのあまりの落差に、面食らってしまった。
母親にとっては実の母だ。嘆き悲しむのも無理はない。でも、祖母と同居したことのない俺には、さほど思い入れがない。どう悲しめばいいか、分からなかった。
気まずさが勝り、結局、母親には最後まで声を掛けられないまま、姉に任せきりにしてしまった。
「……そっか」
きっとヒナも、母の墓前で泣く姉を見て、同じような気まずさを感じたのだろう。
でも、あの時どうすればよかったのか、俺もいまだに分からなかった。何も言えず、ただ、つないだ手を、ぎゅっと握り返した。




