3-09. 進数表記
呼び鈴の音で目が覚めた。足音が廊下を移動し、ドアの施錠が解かれる。
「マリー! トーヤ、どうなった!」
ヒナだった。
マリーは、「まだ寝てるから、静かにね」と小声で彼を窘め、居間に通す。
居間で焚いているストーブの熱を寝室に取り込むため、部屋のドアが開けっ放しになっているので、ふたりの会話は筒抜けだった。
「はあ………………」
マリーがひととおりの事情を説明すると、呆れた表情が脳裏に浮かぶ、特大のため息が聞こえた。続くセリフの予想がついた。
「ばか」
やっぱり、そうだった。
「そう言わないで。……トーヤの気持ちも分かるの。一日仕事をした後に、わざわざ市場へ買い物に行って料理するなんて、面倒だもん。それで、適当に済ませちゃってたんじゃないかな」
「そうなの? マリーは、毎日夕飯つくってるよ?」
「それは、ウチに父さんやヒナが居るからだよ。特にトーヤは、他人のためだと張りきるけど、自分には無頓着だから……もっと早く、気づいてあげればよかった」
マリーは声を落とした。
もちろん、今回の件は俺自身の不摂生が原因であって、マリーには何の非もない。けれど、優しい彼女は、それでも心を痛めてしまうのだ。
「マリー、ごはん作ろう。元気になる、おいしいの」
「そうだね。市場で、いろいろ買ってこようか」
ふたりが玄関から出ていき、後にひとり残された。ごそごそと起きだして、洗面所で顔を洗う。
すでに日が昇っていた。いつも日の出の二時間前に起きているので、こんな時間まで眠ったのは久々だ。
しっかり食べ、ぐっすり眠ったおかげで、頭はだいぶクリアになっている。
ストーブで沸かしたお湯を飲みながら、読み書き勉強会への参加を続けるかどうか、考えた。
体調不良の根本的原因は不摂生だったにせよ、勉強会の精神的負荷が最後のひと押しになって倒れたのは間違いなかった。
「………………」
言葉は、認知と思考の部品。
生の異世界言語を学ぶことは、その言葉を使って生きる人々の知覚世界に踏み込み、彼らの本質を知ることと同義だ。
つまり、この異世界から、馴染み深い地球文化イメージというフィルタを取り去る行為であり、下手に知りすぎれば、マリーやヒナが人間に見えなくなる可能性すらあった。
たとえば、俺たち地球世界人類は、数を十進表記で――つまり、0~9の合計十個の数字を使い、十を一単位として表現している。
では、なぜ十が一単位なのか?
それは、俺たち地球世界人類にとって、数を数えるのに使った最初の道具、すなわち手指が合計十本だったからであり、逆に言えば、それだけの理由でしかない。別に、数学上普遍的な意義がある数じゃないのだ。
実際、俺のいたITの世界では、コンピュータの構造上の都合に合わせ、二進数や十六進数が併用されていた。
――では、異世界言語を学んだ結果、異世界には数字が十二個あると分かったら?
俺はきっとこう思う。『異世界人類の手指は、十二本あるんだろうな』。次にあの穴をくぐった時には、マリーやヒナの指の数が変わっているかもしれない。
「……やめよう」
ひとり呟いた。
俺は今まで、異世界解像度を上げることで、馬糞が見えるようになったり、使い捨てコップの材質を知ったりした。
それらの理解は、異世界の奥行きを増してくれたから、素直に嬉しかった。
でも、今回のは違う。マリーヤヒナが本当の姿に近づき、人間に見えなくなっても、俺は嬉しくない。
世の中には、知らないほうが良いことも、たくさんあるのだ。




