3-07. 発音
断りきれず、そのままルカと一緒に、読み書き勉強会の体験講習に参加することになった。
俺はずっと、異世界の文字を『読めない』と言って避けてきた。
読み書きができなくても、困らなかったのもある。だが、本音を言えば――知らずにいたほうが良いという、直感があったのだ。
俺の知覚する世界は、俺の異世界解像度によって変化する。
たとえば、異世界の街並みが中世ヨーロッパっぽく見えるのは、それが俺にとっての『異世界』だからだ。この異世界イメージは、日本で見たアニメやマンガからきている。
ただ、アニメ・マンガ的中世ヨーロッパ風異世界において、トイレがどうなっているかは、明確なイメージが湧かない。作中には出てこないからだ。
すると、単に『トイレ』と言われてイメージする地球世界トイレに見え、地球世界と同じように使える。
別の経路で、同じ結果に落ち着くパターンもある。
たとえば異世界通貨は最初、異世界イメージをもとにした『異世界っぽい銅貨』に見えていた。
しかし、その価値を日本円換算で500円相当と認識したことで、知覚変換データベースが更新され、俺の目には日本の500円硬貨に見えるようになった。
では、文字はどうだろう?
漢字のような表意文字の場合、たいていの字は、ある概念と一対一に対応している。意味を知れば、500円硬貨と同様、該当する漢字に見えるようになるかもしれない。
――ところが、俺の知る異世界文字は今に至るまでずっと、『異世界っぽい文字』にしか見えなかった。その理由は、マリーの発言によりはっきりした。
異世界文字は、表音文字なのだ。
つまり、文字自体には意味がなく、明確な変換先イメージが存在しない。それで、俺のイメージする『異世界っぽい文字』に変換されている状態なのだ。
見たところ、元ネタはルーン文字と思われたが、詳細な字形を記憶しているわけじゃない。なんとなく、それっぽい文字が捏造されているのだろう。
「×」
マリーが言った。
チラシ用紙に手書きで作った即席教材を、紙芝居のようにこちらへ向けている。可愛らしいリンゴの絵の横には、対応する異世界文字の単語が記されている。
「×、×、×、×、×――りんご」
彼女は一文字ずつ指さしながら、ゆっくり発音した後、単語全体を読み上げた。
「×、×、×、×――ひつじ。×、×、×、×、×、×――にわとり」
毎回、最後の単語だけは聞き取れた。意味のある単語は、自動的に日本語翻訳されるからだ。
だが、一文字ずつ発音されるほうは、まったく聞き取れない。音自体には意味が存在しないため、変換作用が適切に働かないらしい。
「………………」
つまり、もし異世界文字の読み書きを学ぶとすれば、単語とその意味をセットで丸暗記するしかない。
しかも異世界文字は、お馴染みのアルファベットですらなく、捏造ルーン文字ときた。
あまりにハードルが高かった。言語学者ならば、喜び勇んで異世界言語の解読に取り掛かるかもしれないが、俺は一介のIT技術者にすぎず、しかも手元にはラップトップもなかった。
「……トーヤ? どうしたの」
マリーが怪訝そうに、俺の顔を覗き込む。
そりゃそうだ。彼女にしてみれば、話している通りに書くだけなのだ。
マリーから見た俺は、現地語をそこそこ流暢に話している。つまり、俺に課せられたタスクは、ほんの数十文字やそこらの字形と、その読みを覚えることだけ。
ひらがな習得レベルの課題だった。小学一年生でやることだ。大の大人に、できないわけがない、んだけど……。
「……ちょっと、出てくる。続けてて」
席を立って、廊下へ向かった。そのまま玄関から外に出て、扉を閉める。
ひどいめまいに襲われて立っていられなくなり、階段の段差に座り込んだ。
確かに、見慣れない文字を単語単位で丸暗記するのは、骨の折れる作業に違いない。
だが、俺は昔から、勉強だけはできた。天才型ではなく、目の前の課題に愚直に取り組む性分だから、書き取りや暗記といったタスクは、むしろ性に合っている。
だが、今回はムリだ。まったく頭に入ってこない。
普通に話しているはずのマリーの唇から、聞き取れない音が出てくるのが、怖くてたまらないのだ。
もちろん、500円硬貨事件の時から、分かっていたことだった。
俺の目には、マリーは地球世界人間かのように見えているが、それは俺のイメージに写像された姿でしかない。物質的なマリーは、地球世界人間とは別物だ。
でも、それを知っているのと、経験するのとでは、まったく話が違った。
ナイフが人を殺せることは、誰でも知っている。しかし、そのナイフが今まさに首元に突きつけられている恐怖は、その時になってみなければ理解できない。
そしてまさに、今がその時だった。
座り込んだまま動けずにいると、ふと、背後でドアの開く音がした。マリーが駆け寄ってきて、顔を覗き込む。
「トーヤ。顔、真っ青だよ。具合悪いの? 部屋で横になったら?」
大丈夫だと返しても、信じてもらえないだろう。しかし、マリーに事情を話すこともできなかった。
「ごめん。すこし……やすませて」
口元を覆う手の力を抜いて、どうにか、それだけ言った。
マリーは黙って一度その場を立ち去り、すぐに戻ってきた。俺の膝に木桶を置いて、優しく背中をさする。
「気分が悪いなら、我慢しなくていいからね。大丈夫。私がついてるよ」
けれど、この手の温かさも、俺のイメージに写像されたものでしかない。震える手で、強く口元を押さえた。




