2-22. ランドセル
昼食後、候補物件を見に行くことになった。
マリーは両手に街の地図を広げた後、目の前の大通りをしばらく眺め、向きを変えて持ち直す。
「えっとね……」
「マリー、逆。こっちが海」
「ああ! そうよね。えっと、ここが組合で……これがあの建物だから……ええと」
どうやら、マリーはひどい方向音痴らしかった。このままでは一向にラチが明かないと、しびれを切らしたヒナが地図を取り上げる。
「それで? 店、どこ」
するとマリーは、今度は物件ごとの資料をカバンから出してきて、住所を読み上げた。ヒナはすぐに、地図の一点を指し示す。
「ここ」
「えっ、すごいね! なんで分かるの?」
「……マリー、何年、街に住んでる?」
呆れ声で返した。マリーはちょっとばつの悪そうな顔をして、視線を逸らす。
「それは……ずっと住んでると、却って、ふだん行くところにしか行かないの。ヒナは、よく街を探検してたんでしょ?」
「うん、暇だったから。……それで、他の店はどこ」
ふたりが候補物件の場所を地図上で確認している間、俺は、初めてヒナに出会った日のことを考えていた。
彼はあの路地に居た理由を、『迷子になった』と説明した。
しかしあの場所は、大通りからもそう遠くない。ヒナなら、すぐそばの通りへ出さえすれば、自分がどこに居るかなど簡単に把握できそうなものだ。
なのになぜ、彼は冷たい石畳にうずくまり、ひとり泣いていたのだろう?
「……トーヤ。ぼーっとしない。行く」
「え? ああ、うん」
ヒナは地図を畳んでマリーに返すと、いつものように俺の手を握った。それから少し考えて、反対側でマリーの手も握る。
「ふふん」
と嬉しそうに笑った。手を引かれるまま、大通りを歩きだした。
◇ ◆ ◇
組合の紹介物件は、どれも市場の外縁部にあった。いわゆる店舗兼住宅で、一階が店舗、二階が住居というつくりの建物だ。
何件か回った後、最後に向かった物件は、市場南側のエリアにあった。
市場にほど近い、閑静な住宅街の一角だった。木製のシャッターが下ろされており、中の様子までは窺えない。
「ここ、お総菜屋さんだったの。ご夫婦でやっていらしてね。人気店だったんだけど、ご主人が亡くなって……。小さい頃、よく母さんに連れてきてもらった、思い出のお店だったんだけどね」
とマリーが紹介した。
そこへ、ランドセルを背負った子どもたちが数人、道の向こうからやって来て、市場の方向へ駆けていった。
きっと、学校帰りなのだろう――そこでふと、浮かんだ疑問が口を突く。
「そういえば、ヒナは、学校には行かなくていいの?」
唐突に話を変えてしまったので、ヒナは驚いた様子だった。珍しく二、三秒固まってから、「うん」と頷いた。
「……ヒナ、どこの街にも、長くは居ないから。学校には、行ったことない」
「じゃあ、家庭教師とか?」
「うーん……前は、姉ちゃんが教えてくれた。兄ちゃんたちは、忙しいから、遊んでくれなかった」
と彼はうつむいた。教えて『くれた』と過去形なのには、何か事情がありそうだった。
「姉ちゃん、今は王都に居る。ここに来る前、パパが置いてきた。学校に住んで、たくさん勉強するんだって」
「ああ……」
なるほどな。ヒナの父親は、子どもが幼いうちは隊商と共に連れて歩き、それなりの年齢になったら寮のある学校に入れ、本格的に学ばせているのか。
……しかしそうなると、今、ヒナに勉強を教える人は、誰も居ないんじゃないか?
「マリー。ヒナを、学校に通わせられないかな? その……とりあえず、秋まででも」
尋ねると、マリーは「そうだねえ」と眉を下げる。
「学費は、私が払ってもいいんだけど。あまり干渉すると、お父さま、春にヒナを連れて行っちゃうかもしれないし……口出しするのは、やめたほうが良いんじゃないかな」
どうやら異世界には、義務教育の概念はないらしい。ヒナも首を振った。
「ヒナ、この国の人じゃない。学校行くより、タッパー亭を手伝って、商売の勉強したい」
言われてみると、確かにヒナの口調は、ずいぶんと幼かった。
最初は、俺に合わせて分かりやすく話してくれているのだと思っていたが、マリーが普通に話すようになっても、彼の言葉遣いはほとんど変わらない。
ヒナにとっても、この国の言葉は母語ではないのだ。俺が最初に彼の手振りを『言葉の通じない土地で暮らす子どもが身に着けたスキル』だと感じたのは、実際に、事実だったのだろう。
「………………ああ」
ようやく理解した。
あの時のヒナは、道に迷って泣いていたんじゃない。
仲の良い姉と引き離され、あまり言葉の通じない土地に連れてこられたうえに、父親にも放置されていた。そうして行き場を失った結果、ひとり冷たい路地にうずくまっていたのか。
「……学校はともかく、勉強したいなら、私が教えるよ? 昔使ってた教科書も、家に帰ればあると思うし。ねっ」
マリーが明るく提案すると、ヒナはいつもの人懐っこい笑みを浮かべて、こくりと頷いた。
けれどその明るい笑みは、彼の心をそのまま反映したものではない。必要に迫られ身に着けた、一種の処世術なのだった。




