1-32. 転職
マリーには、考えさせてほしいと言った。彼女も、「うん。病気の時に決めることじゃないね」と微笑み、夕飯の支度をすると言って部屋を出ていった。
ひとりベッドの上に座って、どうするべきか考えた。
ヒナが街に居て、支援制度が使える間は、今まで通り土曜日に出店を出させてもらうつもりだった。しかし、もし本当に市場に店舗を出すとなれば、準備期間が必要だ。問題を先送りにする時間はない。
ヒナは、春には街を発つ。でも、マリーはずっとここに居る。急に俺が居なくなったら、心配するだろうか。
彼女は去年の夏に、とつぜん母親を亡くしたばかりだ。俺がのたれ死んだと勘違いし、心を痛めるだろうなと想像した。
遠い故郷に帰ったことにしてもいいが、『帰ることにした』と言って納得してもらえるだけのカネがないし……。
『一生に一度の機会を逃したら、お前は商売人の娘じゃないのかって、叱られちゃう』
ふと、あの言葉はどういう意味だったのだろう、と考えた。
『商売人の娘じゃないのかと叱られてしまう』。それはつまり、マリーにとってこの話は俺への一方的な施しではなく、彼女自身にも何らかの利益を見込んでいるということだ。
そしてそれは、母の形見の宝石を質に入れてまで得たい、一生に一度の機会だという。そうまでして、いったい何がしたいのだろう?
……もしかすると、マリーは転職したいのかもしれない。このまま、母親から引き継いだ組合の仕事を続けるのではなく、親元を離れ、自分自身の力で何かに挑戦してみたいのではないか。
彼女が俺に、その一歩を踏みだす手伝いをしてほしいというのなら……。
「………………」
現状、マリーには組合のまかないの仕事がある。親方に無断で、急に辞めることはしないはず。辞めると告げれば理由を聞かれ、弁当屋の件を話すことになる。
正直、俺は商売に疎いし、彼女の話にどれくらい実現性があるのか測りかねていた。
しかし、マリーの父親は商人組合の親方だ。可愛い娘が無謀な商売に手を出そうとしていると判断すれば、その場で止めてくれるはず。
ならば、俺個人としては、ひとまず前向きに受け止めておく。そして、実際に動き出す、つまりカネを借りる前に親方に相談するよう助言してはどうだろうか。
◇ ◆ ◇
結局、組合事務所の三階で、日曜日の昼頃まで世話になった。
連日の残業で疲れきっていたこともあり、驚くほどぐっすり眠れた。日本に居ると、何となく時間を無駄にしている気がして漫然と画面を見てしまうのだが、異世界は通信圏外であり、寝る以外には何もすることがなかった。
俺が眠っている間、マリーは時々様子を見に来てくれたようだった。目を覚ますたびに、水差しの中身が補充されていたり、布団が丁寧に掛けなおされていたりした。
部屋にささいな変化を見つけると、温かいような、恥ずかしいような、何とも言えない気分になった。何か部屋の様子に変化はないだろうかと、どこかで探している自分もいた。
マリーは毎食、温かくて優しい食事を出してくれた。ヒナが見舞いにと例の異国情緒スープの素をくれたらしく、日曜の昼にパン粥になって登場した。温かみのある木製の器から、食欲をそそられる匂いと湯気が立ちのぼった。
「ヒナ、『ばか』って言ってたよ。また怒らせちゃったね」
「どうしたらいい?」
「……私と一緒にお弁当屋さん、やったらいいんじゃないかなあ。ヒナも喜ぶと思うな」
マリーはそう言って、いたずらっぽく笑った。
パン粥を食べながら、商売をやるのなら、一度親方に相談したほうがいいんじゃないかと提案した。彼女は元よりそのつもりだったらしく、今日の夕食の席で話すとのこと。あとは、その返答次第か。
明日からまた仕事だし、暗くなる前に帰ることにした。
異世界の人々には――というより、この街が寒冷地だからなのかもしれないが――毎日自宅で風呂に入るという習慣はないらしい。良い匂いのする蒸しタオルで身体を拭い、コートを着て、事務所を後にした。




