1-30. 温蕎麦
次に目を覚ました時には、日が高く昇っていた。昼過ぎだった。
ベッド脇の小テーブルには、水差しとコップが置かれていた。喉が渇いた時に自分で飲めるようにと、マリーが用意してくれたのだろう。忙しい彼女の手を煩わせずに済んだので、ありがたかった。
その後、昼のまかない関係の仕事を済ませたと思しき頃に、マリーが様子を見に来た。
おとなしく横になっている俺を見て、「えらいね」と、もう必要ないのに、わざと子どもっぽい口調で言った。からかわれているのは理解したが、嫌な気はしなかった。
「お蕎麦、作ってあげようか。食べる?」
「……ああ、うん」
もちろん、それが俺の知っている蕎麦ではなく、『異世界蕎麦』なのは分かっていた。でも、異世界で妙に身近すぎるワードが出てくると、なんだか落ち着かない。東京のテレビで、地元が特集されている時のような気分になる。
マリーは十分ほどで戻ってきた。四角いトレイに深皿が載っていて、温蕎麦が入っていた。添えられているのは、スプーンとフォークだった。
ベッドの縁に座って、膝にトレイを置いた。深皿を取り上げて、ひと口すする。
麺は、柔らかく茹でられていた。俺はもちろん、蕎麦はコシがあるほうが好きだったけれど、マリーが身体を気遣ってくれたのが嬉しかった。
マリーは、夕飯の支度までしばらく空き時間があると言って、隣に座った。それからちょっと考えて、少し近づいて座りなおして、肩口に軽く頭を触れた。
「私がカゼを引くと、母さんは決まって、お蕎麦を作ってくれた。温かくて、優しい味で……いろいろやってみたけれど、どうしても、同じ味にならないの。なんでかな」
寂しげな声だった。俺は何も答えず、黙って聞いていた。
きっとマリーが探しているのは、『弱った時に母親が作ってくれた温蕎麦』という、思い出補正込みの味なのだろう。
そしてそれは、彼女の母がもうこの世界に居ない以上、決して再現はできないのだった。
◇ ◆ ◇
「ね、トーヤ。借金は、いくら残ってるの?」
カラになった深皿をトレイに置くと、マリーが切り出した。意味が分からず、「ふぇ?」と変な声が出た。
「隠してもダメ。どこかの隊商に、借金があるんでしょ。それで、仕事をしながら一緒に旅をして、この街まで来た。違う?」
「あー……」
なぜ、現地語がほぼ通じない外国人の俺が、まったく不審がられないのだろうと訝しんでいたが、やっと理解した。
そういう人間が、この街にはたくさん居るのだ。彼らは裕福な商人に借金をし、返済のために働いている。言葉が通じなくてもできる仕事となれば、おそらく荷物の運搬とか、積み下ろしとかの肉体労働なのだろう。
先日の、馬糞拾いの老人を思い出した。もしかすると、あの人もそういう身の上で、この街へやって来たのかもしれない。
「えっと……」
嘘をつくのは苦手だった。でも、俺は以前マリーに『別の仕事があるから毎日の弁当配達は無理』と言ってしまっていた。
今後の話題展開を脳内でシミュレートするために、数分黙り込んだ。事前にいろいろ考えておかないと、予想外の返しが来た時に、確実にボロが出る。
――特定の隊商には属さず、短期労働をしているテイにした方がいいだろうな。どこの隊商で働いているのかと聞かれても、答えられないし。
「えと……その、借金は、もう返し終わって……でも、行くアテも、なく、て………………」
結局、馬糞拾い老人の身の上(空想)を拝借した。声が震えたのは嘘をつく罪悪感と緊張のせいだったが、マリーは、最初に黙り込んだことも含め、つらい過去を思い出したからだと理解したようだった。
「そう……。大変だったね。でも、解放されたのがこの街で良かった。よそでは、ひどい扱いのところもあったでしょう」
そうなの? とか普通に口走りそうになり、とっさに口元を手で押さえた。それを見たマリーは、『もう大丈夫だよ』と言わんばかりに、優しく背中をさすってくれた。嘘で彼女の心を痛めた罪悪感が、重く両肩にのしかかる。
……しかし確かに、収入が不安定であろう短期労働者がそこそこ清潔な身なりをし、他人に提供する弁当をどこかで調理でき、はては休日に自分の店を出させてもらえる――という環境は、かなり恵まれているな、と思った。
きっとあの優しい親方が、裕福な商人たちだけでなく、その下で働く人々の人生にまで、心を砕いてくれているのだろう。
マリーはしばらく、静かに寄り添ってくれていたが、やがて、俺の膝から食べ終わった蕎麦のトレイを取り上げた。サイドテーブルの水差しセットを奥へずらして、空いたスペースにトレイを押し込んだ。
目の前に膝をついた。両手で俺の手を包み込んで、顔を上げて、言った。
「トーヤ。私と、お弁当屋さん、やろう」
「え」
予想外の返しが来て、俺はフリーズした。




