1-29. 信頼
結局、さっきの部屋に連れ戻され、ベッドに押し込まれた。横になったまま周囲を見回したが、妙に生活感のない部屋だった。ひととおりの備え付け家具はあるのだが、住人の私物っぽいものがない。来客用のベッドルームとかなのだろうか。
「ここ? 兄さんの部屋だよ」
俺の疑問を察したらしく、マリーが答えた。
「そうなんだ。部屋、俺が使っちゃって、よかったのかな」
「うん。たまに、飲んだ帰りとかに泊まりに来るけど……兄さん、普段は居ないから」
「というより、ここは、父さんが組合の親方だから、今は私たちが住んでるだけでね。持ち家は別にあって、そっちには兄さんの一家が居るの」
なるほど。ウチみたいだな、と思った。
俺には年の離れた兄がいて、俺が小五の時に結婚した。我が家の無駄に広い庭の一角に兄の家が建ち、今はそこで、義姉と三人の子どもの、五人家族で暮らしている。
「だから、この部屋は、しばらく使っても大丈夫。元気になるまで、休んでいって」
「いやっ、それは……」
「ダメ。休んでいきなさい。今日は帰さないからね」
マリーはわざと眉根を寄せて怖い顔(そんなに怖くはなかったが)をした後、「ふふっ」と頬を緩めた。
俺の額に手のひらを置いて体温を確かめ、それからちょっと考えて、芝居がかった大げさな口調で続ける。
「まあ、ひどい熱! うなされていて、お話もできないわ。仕方ない。良くなるまで、我が家で休ませてあげましょう」
もちろん、それは事実ではない。……俺が遠慮せず厚意に甘えられるようにという、優しい嘘だった。
おとなしく頷くと、今度は頬に手を当てて、目の下を親指でなぞった。自分自身の目元なので見えはしなかったが、青黒いクマが、だんだん溶けて消えていく気がする。
「……ん?」
ふと気づいた。マリーが怪訝な顔をして、こちらを覗き込む。
「マリー……いま、普通に話してる……?」
「え?」
彼女は、はっと口元を押さえた。
「ごめんなさい。よく、分からなかった、よね。トーヤが倒れて、ビックリして……ゆっくり話すの、忘れちゃった」
「あ、いや。……その、なんか、分かるようになってて……」
「そうなの?」
異世界500円硬貨事件の時、俺の中で、この異世界の仕様が完全に腑に落ちたことと関係しているのかもしれない、と思った。
だとしたら、先週こちらへ来た時には、すでに普通に聞こえる状態だったことになるが……まあ、マリーやヒナはずっと簡単な言葉で話しかけてくれていたし、なにより、日本での仕事が切羽詰まって、心に余裕がなかったからな……。
ひとり黙って考えていると、マリーはもう一度、優しく目元をなぞって続ける。
「ほら、もう眠って。私も寝るから。おやすみなさい!」
あやすように布団の上から軽く叩いて、彼女は部屋を去っていった。それは、部屋に一人で置いて行っても勝手に帰ったりしないという、信頼の証だった。
「……」
暖かい布団に潜って、目を閉じた。
部屋の押し入れで寝落ちした、幼い日のような気分だった。いけないことだと知っていた。でも、抗えなかったのだ。




