1-28. お手洗い
組合事務所に着いた頃には、とても『夕方』と言い張れる空の色ではなくなっていた。
事務所の扉を引くと、ストーブで温められた空気が、もわっと顔面にぶつかった。俺は中には入らず、わずかに扉を開けたままにして、来客ロビーのほうを覗き込んだ。冬の夜の冷たい風が、足の間を通って、温かい室内へ流れ込む。
「トーヤ!」
マリーはロビーの椅子に座っていたが、俺の姿を見るなり駆け寄ってきた。驚いて、慌てて分厚い扉を閉めた。
「どうしたの? なんで閉めたの?」
扉の向こうでマリーが尋ねる。
「いや、ちょっと……カゼひいちゃってさ。明日の営業は、キャンセルしてもらえる?」
「それは、良いけど……」
ゆっくりと、内側からドアが開いた。俺は慌てて、鼻からずり落ちかかったマスクを引き上げる。暖かい室内に居たので、マリーは薄着だった。ひゅうっと冷たい風が吹いて、彼女は小さく肩をすくめた。
「外、寒いね。温かいお茶、飲んでいく?」
「大丈夫。うつしたら悪いし、もう帰――」
「ううん、入って」
彼女の手が、俺の手首をつかんだ。それが、まるで魔法を掛ける合図だったみたいに、俺は膝から崩れ落ちた。気づいた時には、すでに尻もちをついていた。
「トーヤ!」
マリーが叫んだ。三階の窓が開いた。マズい、もう親方に気づかれた!
「父さん、トーヤが……早く来て!」
「ち、ちょっとまって」
大丈夫、ただのカゼだから、大げさにしないで。言おうとしたが、ろれつが回らない。
マリーが、俺の傍にしゃがみこんだ。白い手が伸びてきて、親指が目の下のクマをなぞる。そこから先のことは、何も覚えていなかった。
◇ ◆ ◇
「うーん……」
暖かい場所で目を覚ました。どうやら、ベッドに寝かされているようだった。窓の外はまだ暗い。数時間くらい眠っていたのだろうか。
身体を起こそうとしたが、布団が妙に重かった。首を反対側に向けると、マリーがベッドにもたれかかって寝息を立てている。彼女の細い腕が、布団の端を押さえているのだ。
その肩は、きっと親方が掛けたのであろう、滑らかな毛布で覆われていた。
「………………」
非常に申し訳なかったが、肩を揺すってマリーを起こした。彼女は目を覚まし、二、三秒ぼんやりした後、横になったままの俺に、布団の上から抱きついた。
「ちょっ」
「トーヤ! 心配した。もう起きないかと思った!」
「いや、ただのカゼで……あの、その、それで……申し訳ないんだけど」
ちょっと、いやかなり言い出しづらかったが、といって、あまり長く我慢はできそうになかった。視線を逸らして、続けた。
「トイレ、貸してもらえない……?」
マリーは数秒黙り込み、「ぷっ」と吹き出した。ひとしきり笑って、それから廊下に出て、トイレへ案内してくれた。
床はタイル張りで、入口のそばに、可愛らしいスリッパがちょこんと添えられていた。ちょっと古めかしいが、清潔な洋式水洗トイレだった。タンク部分に手洗い場はなく、代わりに、入口奥側の片隅に、小さな手洗い用の水道がある。
――つまり、母方の実家のトイレだった。
異世界解像度が低いと、こうなるのか。確かに、異世界作品はたくさん見てきたが、異世界のトイレが出てくる話は記憶にない。どうなっているのか、考えたこともなかったな。
普通に用を済ませ、手を洗って廊下に出た。マリーは廊下で待っていた。
「気分はどう?」
「ああうん、もう大丈夫。ごめんね、心配かけて」
全快とは言えないまでも、日本の古アパートに帰れそうなくらいには回復していた。
といっても、腕時計の示す時刻は三時過ぎ。まだ電車が動いていない。さすがに、電車で二十分の距離を、徒歩帰宅は無謀すぎる。
「下のロビーで、しばらく待たせてもらえるかな。明るくなったら帰るから」
と聞いた。マリーが答えた。
「トーヤ、怒るよ?」
未来形だったが、表情も声も、すでに怒っていた。




