1-27. 風邪引き
約一週間後、俺たちは客先にアプリを納品した。
正直言ってグダグダだったが、『以後は、運用状況を見ながら、適宜修正させていただきます』でどうにか許してもらえたらしい。
金曜日の夜だった。この後、異世界に行く予定があった。
先週の土曜日、マリーは疲れた様子の俺を心配し、弁当屋で出た洗い物を手伝うと申し出てくれた。
マリーも忙しい身の上だ。余計な仕事を増やしては悪いと一度は断ったが、彼女は早く帰って休むべきだと言い張った。結局俺が根負けし、洗ったタッパーを、今日の夕方に受け取りに行く予定になっていた。
「うーん……マズいな」
と呟いて、小さくせき込んだ。明らかに体調が悪かった。冷たい夜風のせいばかりではない、ひどい悪寒が背筋を走る。
もちろん、マスクをするなど普段からなるべく気を付けていたのだが、連日の無理がたたって体力が落ちており、どこかでカゼを貰ってしまったようだった。
明日の営業は無理だな、とぼんやりした頭で考えた。いくらマスクをしていても、体調不良の人間が作った食べ物を、赤の他人に提供すべきではない。
となると、タッパーの回収は今日でなくてもいいわけだ。
しかし、マリーは今日の夕方、組合事務所で待っていると言っていた。これが日本であれば、スマホで『行けなくなった』とメッセージを送るだけで済む話だったが、異世界では、そういうわけにはいかなかった。
黙ってバックレようかな、と思った。マリーを無駄に待たせてしまうのは、もちろん申し訳なかったが、それより、彼女にカゼをうつすほうが嫌だった。
ヒナに聞いたところによると、マリーは親方と二人で、組合事務所の三階に住んでいるらしい。つまり、事務所のロビーで待ちぼうける羽目にはなったとしても、その後ひとりで夜道を歩いて帰らなければならない、ということはない。
でも、マリーは優しい子だ。もともと、俺の疲れた様子を心配して、洗い物を申し出てくれたのだ。行かないと、余計に心配させてしまうかもしれないし……。
「……」
ふと、小学生の頃に起こした事件を思い出した。
当時の俺は、某ネコ型ロボットを真似て押し入れに懐中電灯を持ち込み、収納された布団の上で本を読むのを趣味にしていた。ところがある日、そのまま押し入れの中で寝落ちしてしまった。
目を覚ました頃には、俺が行方不明だと大騒ぎになっていて、大人たちに捜索されていた。
そこへ、何も知らない俺が普通に居間に現れたので、母親は驚愕した。その後、近所じゅうに菓子折りを配り、『お騒がせしました』と平謝りして回った。
みんな笑って許してくれたが、当然、小学校でもさんざんネタにされ、俺のあだ名はネコ型ロボットの名前になった。
……うん? 何の話だっけ。ああ、そうだ。俺が行かないと、マリーが心配するかもって話。
「……あれ?」
顔を上げた。いつの間にか、会社の最寄り駅の方向ではなく、公園の近くの通りに来ていた。何メートルか先を曲がれば異世界に続く穴がある、あの場所だった。
「………………」
何メートルか先まで行って、ビル同士の隙間の前に立って、どうするべきか思案した。
俺が異世界に地球カゼウイルスを持ち込むリスクについては、おそらく問題ないだろうと踏んでいた。あの穴から地球カゼを持ち込んだとしても、現地に存在する異世界カゼに変換されるはずだ。
もちろん、異世界カゼなら安全というわけじゃない。地球人類は、過去に何度も地球カゼの餌食になり、大勢が命を落としていた。
ただ、今回のは、そこまでひどいカゼではないだろう。身体はダルいし熱っぽいが、体力の落ちた俺でも、普通に徒歩で移動できている。地球上でそうならば、向こうでも『その程度のカゼ』に変換されるはずだ。
自然と足が動いて、俺は路地に入った。
とりあえず、事務所まで行こう。マリーとは、距離を保って話せばいい。事情を説明したら、すぐに帰る。それで、感染リスクは最小限に抑えられる。




