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1-26. 退職代行

 月曜日から、また会社での仕事が始まった。俺は頭の片隅で、冬の屋外で冷たい弁当を売るためのアイデアを考えながら仕事をしていた。


 隣のデスクの同僚は、今日は会社に来ていなかった。まあ、土日に出勤したのだし、今日は休むのだろうというくらいにしか考えていなかった。彼が最後に編集したファイルのタイムスタンプは、昨日の深夜二十三時過ぎだった。


「……はい?」


 とつぜん、上司がひとりごとを言った。俺は少しだけ首を回してそちらを見た。しばらく画面を見ながら、ひとりでブツブツ何か言っていたが、顔を上げてこちらを見て、ちらっと俺の隣のデスクに目を向けた。


「なんか、彼、辞めたらしいよ」

「……やめた?」


「退職代行? のナントカって会社から、人事に電話があったみたい。有休消化してやめるから、もう来ないって」

「は!?」


 隣のデスクを二度見した。整理整頓したのだと思っていたが、よくよく見るとそうではなかった。


 彼の私物が、すべて無くなっている。最後に飲んで忘れていったのか、底面にうっすらコーヒーがこびりついたマグカップだけが取り残されていた。


 一瞬、俺が押しつけた休日出勤のせいかとも考えたが、思えば彼はその話が出る前から、なぜかデスクの掃除をしていた。あの時には、すでに辞めると決めていたのだ。


「いやぁ。やる気出してくれてたと、思ったんだけどねえ。最近の若者って、ホント、ワケわかんないよねえ~」


 上司はそうぼやいたが、事前相談もなしに退職し、もう会社には来ないというのだから、今さらどうしようもない。だいたい、もうプロジェクトは最終盤に差し掛かっているというのに、なぜこんなタイミングで辞めるのだろうと思った。


 退職理由は、二日後に判明した。結合テストの結果、アプリの根幹部分に重大な設計ミスがあると発覚し、大量の修正が発生したのだ。『バグではなく仕様です』とはとても言えない状態だった。


 おそらく、彼はどこかの時点で気づいていたのだろう。結合テストによって設計ミスが露呈し、プロジェクトが炎上すると。


 ――それで、その前に、退職代行を使って会社を辞めたのだ。



   ◇  ◆  ◇



 土曜日。俺は例によって弁当十食を作り、組合事務所を訪れた。


 むろん、プロジェクトの状況を考えれば、弁当屋をやっている場合ではなかったが、土曜日の休みだけは断固死守した。


 上司は何か言いたげな顔をしたけれど、俺の目が据わっていたのか、休日出勤を無理強いはしなかった。推し活は労働の原動力であり、妨害すると俺まで辞めると言いだす恐れがあった。


 もちろん、気の弱い俺が、このタイミングで自分の口から退職を申し出るとは、上司も考えなかっただろう。しかし彼は俺に、同僚が退職代行を使って辞めたことを話してしまっていた。


「……トーヤ! ヒナ、良いこと考えた!」


 事務所のドアを開けるなり、ロビーで座っていたヒナが駆け寄ってきた。今日はマリーも一緒に居る。


「どんなの?」


 と返した。もちろん、俺も何か考えておくつもりだったが、連日深夜残業していたため、まったく何のアイデアも浮かんでいなかった。


「スープ、おまけにつける!」


 ヒナらしい、良いアイデアだった。弁当自体は冷たくとも、温かいスープと一緒に提供すれば、それは『温かい食事』になるのだ。それに、スープの鍋なら、ストーブで簡単に温められる。


 マリーが組合の厨房から、大鍋と杓子、来客用のカップを十個ほど貸してくれた。飲み水で満たした鍋を受け取り、お礼を言って表に運び出そうとしたところ、「待って」と呼び止められた。


 マリーは白い両手で俺の頬をつかんで、自分のほうへ引き寄せ、覗き込む。思わず鍋を取り落としそうになったが、なんとか持ちこたえた。


「……トーヤ、大丈夫?」


 マリーが尋ねた。ここ数日、エナジードリンク漬けで深夜まで残業し、ロクな食事もしていなかったから、顔色が悪く見えたのだろう。


 彼女の柔らかい指が、優しく目の下のクマを撫でる。


「だ、大丈夫」


 正確には、たったいま大丈夫になった、だが。


 マリーはまだ心配そうにしていたけれど、黙ってうなずき、奥へと去っていった。彼女にも、組合のまかないを用意する仕事があるのだ。


 表に出て、ストーブの上に大鍋を置く。しばらくするとお湯が沸いたが、……ここからどうするんだ? さすがに、ただのお湯をスープと言い張るのは、『仕様』では済まされない。


「ふふん」


 ヒナはにやりと笑って、懐から薬包紙を取りだした。開けると、異国情緒あふれる匂いがふわりと漂ってくる。何種類かのスパイスを混ぜ、細かく挽いたもののようだった。


「これを入れる。そしたら、お湯がスープになる」


 スパイスをお湯に入れて、杓子でかき混ぜると、食欲を刺激する良い匂いが立ちのぼった。


 通行人たちも、スープの匂いをキッカケに興味を持ってくれて、今日は九食売れた。マリーが最初に一食買ってくれたので、つまり、完売した。


「……」


 なるほどな、と思った。異世界にも、すき焼きのタレがあったのか。

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