1-23. マーマイト
――そうか。マーマイトだ、と思った。
修士課程一年の頃。同じ研究室の博士課程の先輩が、イギリスでの国際学会に参加したことがあった。
世の中にはなぜか、旅みやげとして『変なマズいもの』を持ち帰って他人に食べさせたがる人種がいて、その先輩は、まさしくそういう性質だった。
俺は研究室の片隅にある自分の席で、黙々と目の前の画面に向かっていた。向こうで何か騒いでいるのは知っていたが、イヤホンをしていて、詳しい会話内容は聞いていなかった。
ふと、肩を叩かれて顔を上げると、その先輩が居た。
面倒だなと思いつつイヤホンを外すと、「お前、食ってみろよ」と言って、にやにやしながら、おそらく回し食いに使われたのであろう、曇ったティースプーンを差しだした。
それは濃い茶色のペーストで、見た目だけなら、チョコレートソースに見えなくもなかった。ただ、明らかにチョコレートとは違う、鼻を突くような匂いがした。
しかし俺の嗅覚は、それを腐った匂いだとは判定しなかった。拒否するとますます絡まれそうだったので、そのままおとなしく口に入れた。
「へえ、うまいっすね」
と言うと、室内の空気が凍り、彼らは全員、信じられないものを見る目で俺を見た。そして、『MARMITE』と書かれた黄色いフタのビンは、俺のものになった。
で、貰ったはいいが、どのように食べればいいのか分からなかったので、目の前のパソコンで『マーマイト 食べ方』と検索した。すると、こんな記事がヒットした。
――マーマイトは、イギリスの伝統的な発酵食品。独特の風味があり、好き嫌いがはっきり分かれる味といわれます。栄養豊富で、朝食のトーストに塗って食べるのがおすすめです。――
俺はこう思った。『つまり、日本でいうところの、納豆みたいなやつか』と。
もちろん、マーマイトと納豆を並べて見比べても、共通点は見いだせない。原材料、作り方、見た目や味も異なる。物質としては、完全に別物だった。
しかし納豆は、日本の伝統的な発酵食品で、好き嫌いの分かれる独特の風味があり、栄養豊富で、朝食の米飯にかける食べものだ。
そういう、文化的な意味合いだけを抽出することで、マーマイトは、『イギリスの納豆』になる。そしておそらく同じことが、俺の中で、異世界銅貨に対しても起きていた。
あの日、ヒナが事務所を出て行った後。俺は来客ロビーで、銅貨の価値について考えた。
ひとまず、日本円換算で500円と仮定し、その正当性について、複数事例を元に検証した。最終的に、たぶんこの銅貨は、日本の500円硬貨に相当するものである、という理解に達した。
それによって、異世界銅貨は、俺が漫然と思い描いていた『異世界で使われていそうな、ちょっと質の悪い銅貨』から、より解像度の高い、『異世界500円硬貨』にアップデートされた。
結果として、俺の目には、つい先日まで銅貨だったものが、急に500円硬貨として映るようになった、と。
異世界では、俺が世界をどう認識するかによって、モノの見え方や、言葉の聞こえ方が変わる。どういう仕組みかは分からないが、しかし、実際にそうなのだ。
今回、異世界銅貨が日本の500円硬貨になるという、地球世界では考えられない重大異変が発生したことで、俺は大混乱に陥った。ただ、いま思えば、同様の現象は、以前から繰り返し起きていた。
異世界へ来るたび、徐々に言葉が聞き取れるようになっていったのも、おそらくそういうことだった。
俺は、ヒナやマリーの異世界語を、なぜか日本語として認識していた。
さっき、ヒナに『1500円』と日本円の金額を告げられてひどく驚いたが、それを問題視するのなら、そもそもヒナの発話を日本語として聞いている時点で、おかしいと気づくべきだった。
どちらの事例も、俺はこの異世界を、物質ではなく、文化的意味によって認識しているのだと――そして、俺の異世界解像度の上昇に起因して認識内容が変化しているのだと考えれば、辻褄があう。
すると、この世界が異世界アニメ・マンガの記号的に見えたり、すべてのものに何となく見覚えがある理由も、腑に落ちた。
単純に、俺にとっての『異世界』は、こういうイメージだったから。簡易ストーブがテレビで見たものに似ているのも、俺の『簡易ストーブ』のイメージがそうだったから。
異世界文化文脈における意味が、俺の中にある地球世界のイメージに投影されているのだ。
不自然なまでの大通りの小綺麗さも、それで説明がつく。
馬糞が落ちていないのではなく、俺の解像度が低すぎて、あっても認識できていな……え、大丈夫かな。知らないうちに、ウッカリ踏んでないといいけど。飲食店で馬糞付きの靴は明らかにマズい。靴の消毒も、チェックリストに入れておくか?
「はー………………」
長く深く、息をついた。やっと、顔を上げられた。
すべての不思議な現象はつながっていて、再現性があった。少なくとも、今までの観測内容を思い返した範囲では、明らかな例外は見当たらなかった。
だったら、異世界は、そういう仕様だ。
そして、『仕様だ』と思ったら、急にすとんと納得できた。
誤解されがちだが、科学者という人種は、決して自然科学の信奉者ではない。むしろ真逆だ。
彼らは、ただ自分の五感で世界を観測し、観測結果に合致するよう、理屈のほうを合わせているのに過ぎない。大学に編入した時、最初にそう教わった。
だから、科学の正しさが証明される日は、永遠に来ない。常に、『今のところ観測結果との矛盾はない』というだけ。
まず先に世界があり、理屈は後からつけられる。この異世界だけでなく、俺の生まれた地球世界でさえも、そうやってできている。
「あ、トーヤ、やっとうごいた」
テーブルの向こうで、ヒナが呆れていた。いつの間にか、弁当が何個か減っている。俺が考えごとをしている間に、売りさばいてくれたようだった。
彼は、ふと何かに気づいたように、俺の顔を覗き込む。
「……うん? トーヤ、さむい? げんき、ない?」
「あ、えと、ごめん。その………………息するの、忘れてて」
とっさに、指先で口元を拭った。もしかすると、唇が青ざめているのかもしれない。
ヒナにも紫色に見えるのかは分からなかったが、別に大した問題じゃない。日本語でも、実際には紫なのに『青ざめる』と言う。
「はあ~~~~? ……はあ。わかった、マリーにいっておく。あんまりからかうと、トーヤ、いきするのわすれて、しぬ」
「ま、マリーにはいわないで……」
「じゃ、しごとする!」
ふたたび、目の前の大通りへ目を向けた。
まるでアニメの背景のような、異世界の街並みだった。
今はそう見えるけれど、この先もマリーやヒナと一緒に過ごせば、いつか、もっと立体的に、色鮮やかに見える日が来るのかもしれない。
ヒナが客を呼び込む声を聞きながら、なんとなく、そんなことを考えた。




