1-19. 食品衛生講習会
その日、日本の古アパートに戻った俺は、まずラップトップを開いた。
オンラインの表計算アプリを開いて、作り慣れた照り焼きチキン弁当五食分の食材名と分量とを、セルに入力した。
それからネットスーパーのサイトで食材を検索し、内容量や価格を書き留めた。このとき初めて、たった2キロの米がスーパーで買うと2000円以上もすることを知った。
狭い台所の脇に置きっぱなしの、米農家である実家から強制定期配送されてくる米袋を二度見した。大学編入で地元を離れてこの方、母親は欠かさず、俺のアパートに米を送ってきていた。
――それはさておき。
計算したところ、照り焼きチキン弁当の原価は400円程度だった。ヒナが設定した弁当代は1500円であり、原価率は26%。見事に『三割程度』に収まっていて、ヒナの見る目の確かさに舌を巻いた。
次に、ゴミ箱からすき焼き弁当の買い出しレシートを拾ってきて、同じことをした。
奮発して良い肉を買ったことが響いて原価は1000円を超え、1500円に対する原価率は67%だった。
数字として可視化したことで、自分がどれほど商売を舐めていたか理解し、ヒナが怒り狂ったのも無理はない、と反省した。
「……」
続いて、部屋の片隅で適当に積んでいた麻袋の中身をこたつ机に広げ、枚数を数えた。
多少、ヒナと市場で飲食するのに使いはしたものの、今日貰った分も含めて273枚、日本円換算で14万円弱相当の異世界銅貨(500円)が入っていた。
一度その価値を知ると、適当に放置したあげく、『場所を取って邪魔』などと考えていたことが申し訳なくなった。
この銅貨たちは、異世界経済を潤滑に回す役割を背負って生まれてきたのだ。しかし、日本の古アパートにあるかぎり、何に使われることもなく、錆びて朽ち果てるしかない。
異世界通貨を日本に放置するのは不健全であり、きっとヒナに怒られる、という最初の直感が正しかったことを認識し、銅貨をふたたび30枚ずつに分けて、手のひらサイズの麻袋に戻した。
ひととおりの作業を終えた後、ぼんやりとシャワーを浴びていて、ふと気づいた。
――もし、日本で飲食店を開業するとしたら、何か資格が必要なのではないか。たとえば、調理師免許とか……むろん、一朝一夕に取れるものではないのだろうが。
洗った髪をタオルで拭きながら、スマホで『飲食店 開業 資格』と検索する。
食品関係の事業者には、保健所が開催する『食品衛生講習会』の受講義務があることが分かった。オンライン動画での受講も可能らしい。ありがたい話だった。
マリーには、『食品の取扱資格を持っているか』といった質問はされなかったし、ヒナや親方も確認しなかった。たぶん、異世界にはそういう制度はないのだろう。
でも、俺は形から入りたい性質だったし、できることはやっておきたかった。
組合事務所前に店を出すには、親方の許可が要る。つまり、もし何か問題を起こすと、親方の顔に泥を塗ることになる。
異世界弁当屋が商売的に失敗するのは構わないが、売った弁当で食中毒を起こすことだけは避けたかった。
そもそも、異世界にも食中毒問題があるかは知らない。もし無ければ、掛けた手間が丸ごと無駄になる可能性もある。
しかし、問題発生が予想可能な場合には、『かもしれない』と悪い方向に考えておくのが工学の基本であり、俺はアプリ開発の仕事によってその精神を叩きこまれていた。
さっそく、ラップトップで合計一時間ほどの講習会動画を視聴した。オンライン動画は、当然、日本にいる間しか見られない。異世界に居る時にも参照できるよう、内容を紙のノートにまとめた。
俺は、過去に自炊料理で食中毒を起こしたことはなかった。しかし、それはおそらくラッキーだっただけで、石鹸で何となく手を洗ったり、調理器具を洗剤で洗浄するだけでは、食中毒対策として不十分だったことを理解した。
赤の他人に料理を提供する以上、清潔な衣服を着る、正しく手を洗う、調理器具を消毒するといった最低限の対策は、きちんと取っておくべきだった。マスクや使い捨て手袋も、着用したほうが良い。
ウッカリして作業漏れを起こさないよう、手順書やチェックリストも用意しなければ。タッパーのフタは日本で閉めて密封するが、基本的な衛生管理はヒナにも共有しておこう。
そんなことを考えながら、ひとまず手元のノートを閉じた。




