1-15. 質問
マリーとふたりで、組合の事務所に戻った。入口の扉には、営業中にはない、短い文字列の書かれた札が掛かっていた。おそらく『本日終了』的なことが書かれているのだろう。
マリーは札を無視して扉を開けた。施錠はされておらず、カランカランとドアベルが鳴った。受付や事務室に人影はなく、来客ロビーの一角に、ヒナがひとりで座っている。
彼は、テーブルの手元に置いた麻袋を眺めていたようだったが、音に気づいてゆっくりと顔を上げた。普段の人懐っこい笑顔はなく、ひどく不機嫌そうだ。
「おそい」
と抗議した。……会の片付けが済んだら戻ってこいと指示されていたのに、ずいぶん待たせてしまったからな。怒られても仕方がない。
「ヒナ、ごめんね。わたし、ひろばでおさけをかっちゃって……のんだら、きぶんがわるくなって、やすんでた。トーヤはそばにいてくれて、それで、おそくなったの」
マリーが事情を説明した。現地語話者であるヒナへ向けたはずの言葉がクリアに聞き取れたのは、俺にも会話内容が伝わるようにと、配慮してくれたからだろう。
「マリー、だいじょうぶ?」
「ええ。もう、だいじょうぶ。……ねえヒナ、トーヤをしょうかいしてくれて、ほんとうにありがとう。わたしも、くみあいのみんなも、とてもたすかった。たくさん、たくさんおれいをいいたい」
「……うん」
こんなにお客に喜んでもらえたというのに、答えたヒナの口調は、なぜかあまり嬉しそうではなかった。マリーも同じように感じたらしく怪訝な顔をしたが、理由を尋ねる前にヒナが切り出した。
「ごめん、マリー。ヒナ、トーヤに、だいじなはなしがある。ここで、ふたりだけで、はなしてもよい?」
「……わかった。わたし、うえのへやにいる。かえるときは、いってね」
と頷いて、マリーは階段を上っていった。上階でドアが閉まった音まで確認したうえで、ヒナはあらためて、こちらへ視線を向けた。
完全に目が据わっており、無言の圧力を感じた。機嫌が悪かったのは、単に帰りが遅くなったからではなさそうだった。……えっ、俺、何をやったんだ?
今までのできごとを思い返してみる。毎日の弁当はみんなに喜んでもらえたし、寝込んでいたマリーは無事に回復した。今日の快気祝いは、温かくて良い会だった。
ひととおり振り返っても、ヒナをここまで怒らせた原因には、思い当たるフシがなかった。
「トーヤ、すわって」
ヒナが静かに指示を出した。
「……はい」
どぎまぎしながら旅行カバンを置き、ヒナの対面の椅子に座った。N年前、何社も落ちた就職面接試験の嫌な記憶がよみがえる。何が正解で何が不正解なのか分からないまま一方的に品定めされる、独特の居心地の悪さがあった。
「……トーヤ、いくらつかった?」
「へ?」
「きょうのベントー。おかね、いくらつかって、つくった?」
目を瞬かせた。現金ではなくバーコード決済で支払ったので、金額はよく覚えていなかった。テーブルの下でコートのポケットを探ったが、レシートらしき手触りはない。たぶん、帰宅後に、ゴミ箱に捨てたのだろう。
調べようと思えば、決済アプリに取引記録が残っているはずだった。しかし、ヒナの前でスマホを取りだすのはマズい。
第一、日本円の購入金額を伝えたとして、ヒナに理解されるとも思えなかった。ここで妙なことを口走ると、かえって素性を怪しまれる可能性が――。
「トーヤ、こたえて!」
俺の返答が遅いので、ヒナはあからさまにいらだっていた。今まで、彼がこんな態度を取ったことはなかった。乱暴な口調で怒鳴られてびくりと肩がはね、焦って、とっさに答えた。
「わからない」
事実だった。和牛すき焼き肉が980円かける六パックだから、少なくとも6千円以上ではあるだろう。しかし、それ以上に確かなことは、現時点では言えない。
「……わからない?」
ゆっくり目を閉じてうつむき、扱いかねた感情を吐き出すように細く長い息をついてから、ヒナは顔を上げた。手元の麻袋を、ずいとこちらへ押しやった。中で、じゃらっと硬貨の鳴る音がした。
「トーヤ。これ、なにか、わかる?」
「え?」
「……きょう、おやかたが、トーヤにくれたおかね」
麻袋を取り上げた。昨日まで毎日親方から受け取っていたのと、だいたい同じくらいの重さだった。今日の、すき焼き弁当の代金だろう。
どうにも、話が見えなかった。俺が悪いのだろうが、原因が分からなければ謝罪のしようがない。ただ上辺だけ謝ったところで、火に油を注ぐだけなのは明白だった。
「ヒナ、えっと……あの……」
「もういい。ヒナがわるかった。トーヤは、しょうばいをしたことない、だから、へただとおもってた。ちがう。トーヤには、ちゃんとしょうばいするつもりない。だったら、ヒナがおしえること、ない」
しかしヒナには、これ以上説明する気はないようだ。彼は椅子を立つと、そのまま出口へ向かった。分厚い扉を力任せに押し、ドアベルが大きな音を立てる。
「じぶんのくにへ、かえったらいい。そのおかねは、かえるのにつかえば!」
ヒナは最後にこちらを向くと、冷ややかに告げ、事務所を出ていった。
俺は座った椅子に磔にされたかのごとく、ピクリとも動けなかった。呆然としているうちに、ドアベルの音はだんだんと小さくなり、やがてロビーはぴたりと静かになった。




