1-14. 生姜スープ
それから、どれほど時間が経っただろう。まどろんでいたマリーが、ゆっくりと目を開けた。小さく伸びをして、ベンチに座りなおした。顔色は、だいぶ戻っていた。もう大丈夫そうだった。
カラのタッパーのフタを閉じて、カバンに戻した。マリーはその様子を見て、ちょっとばつが悪そうな表情になり、それから俺の顔を見た。
「……かあさんが、しんじゃったの」
と、唐突に言った。あまりにも急な話題転換に、とっさに声が出なかった。
「え、あ、……そっか」
数秒かかったあげく、出てきた言葉がそれだった。もっと何かあるだろ、と自分でも思った。でも、今日が初対面の自分には、何かを言う資格はない気もした。
「まえのなつ。いきなりたおれた。それきり、おきなかった。わたし、なにもできなかった」
その話で連想したのは、脳卒中とか心筋梗塞といった病名だった。それから、もしここが日本だったら、救急車を呼べば助かったのかなと考えた。
もちろん、日本の医療だって万能ではない。だが、おそらく、この異世界よりは進んでいるはずだ。
「かあさんは、くみあいのおかみさん。たくさん、しごとしてた。かみのしごと、おきゃくのあいて、へやのそうじ……まかないもつくってた。でも、とつぜん、かあさんがいなくなって。かわりに、わたしがすることになったの」
マリーは、膝の上でこぶしを握り、うつむいた。
「でも、わたし、かあさんみたいにはできなかった。かみのしごとは、みんなでやってくれた。おきゃくのあいては、とうさんがした。わたしは、そうじとまかないだけ。なのに、すごくたいへんだった」
「分かるよ」
今度は、考える前に口をついて出た。言ってしまってから、慌てて訂正した。
「いやっ! その、まかないが大変って話だけ、だけど。俺もさ、朝から弁当作って、配達して……毎日続けるの、すごく大変だった! たった、何日かだったのに……」
続きを口走ってから、今の発言はマリーを責めたように聞こえたかもしれない、と気づいた。そもそも、俺が弁当屋を始めることになったのは、マリーがカゼで寝込み、まかないの仕事ができなくなったからなのだ。
「いやでも、俺は楽しかったんだよ! 今日だって、みんな、おいしいおいしいって食べてくれて、嬉しかっ………………あ、……そんな話、する流れじゃ、なかった……よね……ごめん」
だんだん声が小さくなっていき、最後には黙り込んだ。
気まずい沈黙。ああ、やってしまった! 最悪の展開だ。どうせ気の利いたことなんて言えやしないんだから、最初から、聞き役に徹しておけばよかったのに!
「……ふふっ。あははっ」
黙って肩を震わせていたマリーが、耐えきれずに吹き出した。
俺は日本語で話しているつもりだったが、彼女の視点では、目の前のアラサー男が慌てふためきながら幼児口調でまくし立てたあげく、盛大にスベッて黙り込んだわけだ。そりゃあ、笑えるな。
「……そう。さいしょは、できたの。でも、まいにちつづけるのは、すごくたいへん。だけど、とうさんに、わたしがやるっていっちゃったから」
ひととおり笑った後、マリーは目元を指先で拭い、恥ずかしそうにうつむいた。
そうだよな。俺の場合、弁当屋をやるのは休暇中だけだと、二日目には決まっていた。だから、こうして最後まで走り切ることができた。
ゴールが見えていれば、そこへ向かって走ればいい。大変だけど、不可能じゃない。
でも、マリーは違った。おかみさんは、もう戻ってこないのだ。ただでさえ、とつぜん母親を亡くして気落ちしていただろうに、気丈に振舞い、ゴールの見えない中を必死に走り続けた。体調を崩し、倒れてしまったのも無理はなかった。
「とうさんは、わたしがずっとねてても、おこらなかった。しんぱいして、たくさん、ごはんをかってきてくれた。でも、わたし、たべられなくて……とうさんにないしょで、すてた。とっても、かなしかった」
と言って、マリーは細い眉を下げた。優しいマリーにとって、父親の純粋な厚意を無碍にせざるを得ない状況は、どれほどつらかったことだろう。無関係のはずなのに、鼻の奥がツンとした。
「とうさんが、トーヤのベントーをたのんだのはね。ヒナが、ベントーはとってもおいしくて、きっとわたしがげんきになるって、いったから。でも、あなたがわたしにつくってくれたのは、ベントーじゃなく、あたたかくて、やさしいスープだった」
マリーはどこか遠くを見るような目になった。もう何日も前に食べた、生姜スープの味を思い出しているのかもしれなかった。
「わたし、とうさんがスープをもってきたとき、ないちゃった。それからは、いつも、わたしのへやでいっしょにごはんをたべた。とうさん、いそがしいのに、あさとよるには、あたたかいスープをつくってくれたの。……あなたのスープほど、おいしくはなかったけれど」
マリーは冗談めかして、小さく笑った。
もちろん、俺のスープがうまかったのは、日本の便利な環境のおかげだ。鶏がらスープ調味料も、生姜チューブも、つまみを捻るだけで火が付くガスコンロも、異世界にはたぶん無い。
そんな中、あの親方が、慣れない調理に奮闘する姿を想像した。マリーには、もっと鮮明に思い描けたはずだった。
「あなたのスープをのんで、すこしげんきになった。つぎは、しろをスープにいれてもらった。そのつぎは、たまご。やさい、さかな、にく、げんきになるたび、とうさんのベントーをわけてもらった。ぜんぶ、おいしかった」
彼女はまっすぐに、こちらを見上げた。宝石をはめ込んだかのような、透き通った青い瞳。『宝石みたい』なんてありきたりな表現しか浮かばない、貧相な言語化能力が恨めしくなるほど綺麗だった。
「もちろん、きょうのベントーも、とってもおいしかった。ありがとう、トーヤ」
普段の俺なら、適当に笑ってごまかしたかもしれない。でも、今日は素直にうなずけた。
「……いいえ。どういたしまして」
「それと。わたしのはなしをきいてくれて、ありがとう。……みんなには、ないしょにしてね?」
「うん」
俺はこの異世界の外側から来た、誰とも縁のない異物。しかし、だからこそヒナもマリーも、俺にだけは苦しい胸の内を明かすことができたのだと思った。案外、異物であることも、悪いばかりではないのかもしれない。
「……ねえ、トーヤ。ベントーは、きょうでおわりだって、ヒナにきいた。それは、わたしのカゼがよくなったから? それとも、なにか、ほかにすることがあるの?」
マリーが上目遣いにこちらを見て、ちょっと恥ずかしそうにはにかんだ。
「……もし、トーヤが、よかったら。また、くみあいのしごとを、たのみたいな。まいにちじゃなくてもいいの。だめ?」
「ああ、ええと……」
何と答えたものかと考えた。平日は会社があるし、どうやりくりしても弁当の配達は無理だ。でも、休日なら……。もともと、弁当屋は今回で最後にする予定ではあったが、どうせ日本の俺には、休日にやるべきことも、やりたいこともなかった。
休日の俺はたいてい、配信サイトでアニメを見たり、スマホでマンガを読んだりして過ごしていた。
といっても、家で、ひとりで時間を潰すのにちょうど良いというだけで、いわゆるオタクと呼ばれるほどの熱量はなかった。感想を語り合う友だちもいなかった。エックスのフォロワーは、業者のアカウントばかりだった。
もし、俺が弁当屋をやることで、マリーが一息つける日ができるとしたらどうだろう。これ以上ないほどに、有意義な休日の使い道じゃないか。
「その、明日からは、別の仕事があるんだ。だから、毎日は無理だけど……時々でいいなら、引き受けるよ」
「ほんとう! じゃあ、つぎは、いつ、たのめる?」
ゴールが見えていれば、そこまで走ることができる。いま決めておけば、マリーの心は軽くなり、また明日からがんばれるだろう。
次の日曜日には、ヒナとの約束があった。彼の承諾なしに、勝手に反故にしてはまずい。土曜日は……まあ、たぶん大丈夫だろう。もし会社で急な出勤を頼まれたら、どうしても外せない予定があると断ればいい。
こうして、俺はマリーから弁当の注文を取った。これが、俺が自分で受注した案件の、第一号になった。




