3-42. 和食
大家さんが夕飯の支度をしている様子をじろじろ見るのは失礼に思えたので、俺は黙ってテレビを見ていた。
目は向けずとも焼き魚やみそ汁の匂いが漂ってきて、なんとなく、実家の食卓を思い出す。
夕飯の献立は、白米、アジの塩焼き、切り干し大根、豆腐とわかめの味噌汁、ぬか漬け。ザ・和食といった趣だ。
「いただきます」と手を合わせて、食べはじめる。
アジは脂が乗っていてうまい。味噌汁は、地元とは色が違うな。こっちのほうが茶色くて辛そうだけど、飲んでみると意外に甘いので、なんだか不思議な気分だ。
作り置きの切り干し大根は冷蔵庫から出したばかりで冷えていて、夏の食卓に良いアクセントを添えてくれる。ぬか漬けは、お茶請けにもいただいたが、白米に載せるといくらでも食べられる。
何もかもが米に合うせいで、あっという間に茶碗の中身が減っていく。
とうとうカラになると、大家さんはおかわりを勧めた。手土産として持って来たのに自分で食べるのもどうかと思いつつ、ありがたくいただいた。
しかし、実家の祖母がそうだったように、満腹だと断っても遠慮していると思い込み、何度も勧めてくるので困ってしまった。何とか、手を合わせて食事を切り上げる。
「ごちそうさまでした」
食後の緑茶を飲んだ後、ご馳走になった御礼にと、後片づけを申し出た。流しで皿を洗っていると、大家さんがテレビを見ながら、ぽつりとつぶやく。
「……あんた、新しい仕事、うまくいってないの?」
「え?」
まあ、生活リズムがすっかり変わったし、不在にすることも多くなった。転職したのはすぐに分かっただろう。
その後、妙に重い荷物がしょっちゅう届くようになったので、何か怪しい仕事を始めたのではと、疑われているのだろうか。
「近頃、楽しそうにしてると思ってたのに、今日は元気ないから」
なるほど、それで食事に誘ってくれたのか。俺がルカをウチに誘って、土鍋で炊いた米を食べさせたみたいに。
最後の食器をカゴに伏せ、濡れた手をタオルで拭いた。洗い終えたらそのまま帰るつもりだったが、もう一度、席につく。
「その、仕事の悩み、というか……」
マリーとのことは、なんと説明するべきなのだろう。もちろん、異世界云々については話せない。現代日本の問題に翻訳するとしたら……。
「いま、付き合っている女性が、いるんですが」
と切り出した。
俺たちがどういう関係なのかについて、直接マリーと話したことはない。
だが、エリザ嬢は明確に俺の背中を押そうとした。少なくとも彼女の目には、俺たちは、そういう間柄に映っているのだと思う。
「その、俺にはもったいないというか……もっと良い相手が、いくらでもいるだろうし。俺じゃ、苦労かけるだけだろうから……いっそ、さっさと身を引くべきなのかなと」
視線を伏せて続けた。大家さんが、どんな目でこちらを見ているのかは分からない。
しばしの沈黙。
「……あのねえ。他人のせいにするんじゃないよ。あんたに、意気地がないだけでしょうが」
返答は痛烈だった。
まあ、……確かにな。俺はただ、先の見えない現状が恐ろしく、逃げ出したいだけなのだ。
いつもそうだった。実家から逃げ、就活から逃げ、大学からも逃げた。前職の社長に同郷のよしみで拾ってもらい、どうにか正社員になれたけど、結局、元弊社もやめてしまった。
「……」
けれど、過去の俺は、目の前の現実から逃げ出したくて、そうしていたのだ。
今回は違う。逃げ出したいわけじゃない。俺は、これからもずっと、マリーのそばに居たいのだ。
なのに、そのためにどうすれば良いのか分からないという理由で、また逃げ出そうとしている。しかも、それが彼女のためだとか、もっともらしいことを言って。
「その子の幸せは、あんたが勝手に決めることじゃない。もちろん、あたしが決めることでもない。聞く相手が違うんじゃないのかい」
大家さんは立ち上がって、カーテンを閉めた。音につられて、窓の外へ視線を向ける。隙間から見える空は、もう暗かった。
「そう、……ですね」
夕飯の御礼を言って、二軒隣への短い帰路についた。帰り際、大家さんがぼそりとつぶやく。
「息子が、ここを潰して施設に入れって、うるさくってねえ。……あんたが出ていったら、そうしてもいいかもね」
その意味するところは、『出ていってほしい』なのか『出ていってほしくない』なのか。
大家さんは、それ以上は言及せず、黙って玄関扉を閉めた。




