3-22. クッキー
翌日、昼のまかないの後。ヒナは、『公園で遊んでくる』と宣言して、ひとり出かけていった。
俺たちは、マリーが淹れたハーブティーと、昨日の残りのクッキーでお茶をしていた。
「ゆうべ、父さん、遅くまで仕事をしていてね。お夜食にって、お蕎麦を作ってあげたの」
ハーブティーを飲みながら、マリーが話しはじめた。
まだ、すっかりいつも通りとはいかないものの、昨日に比べれば、ずいぶん顔色が良くなっている。
「父さん、最初は、普通に食べてたんだけどね。私が、市場の人たちに聞いた母さんの話をしはじめたら、我慢できずに泣いちゃった」
つい、強面の親方が涙する様子を想像しかけたが、自主規制した。親方は、マリーの前だから泣けたのだ。他人の俺には、想像されたくないだろう。
「こんなこと言ったら、悪いけど。私、父さんが泣いたのを見て、ほっとしたの。……悲しんでるの、私だけなのかと思ってたから」
彼女は両手でカップを包み込み、水面に視線を落とした。昨夜の光景を、脳裏に思い浮かべているのかもしれない。
「おかしいでしょ? 私だって、心配を掛けたくないからって、無理して頑張ってたのに。父さんも、平気な顔をしてるからって、平気だったはずないのにね」
「マリーは、お父さん似なんだね。そういうところは」
「そうかも。父さんに似てるって言われたことは、あまりないけど」
マリーは小さく微笑んで、クッキーを一枚つまんだ。
昨日は、間を持たせるためだけに無理やり食べている様子だったが、今日のマリーには、甘いお菓子を楽しむ余裕があるようだった。
「トーヤ、本当にありがとう。……あなたが居なかったら、私、母さんの味にはたどり着けなかった」
「別に、俺はついて行っただけで、何もしてないよ。聞き込みしたの、マリーだし」
「本気で言ってる?」
彼女は呆れた口ぶりだったが、事実だった。
俺は、些細なアドバイスをしたにすぎない。でも、マリーの役に立てたのであれば、それは嬉しかった。
日本で暮らしていた頃は、自分の仕事が何の役に立っているのか、よく分からなかったのだ。
顧客に礼のひとつでも言われれば実感が湧いたかもしれないが、たいていは、営業経由でクレームが飛んでくるだけだったし。
「……私ね、今まで、自分のやりたいことしか、考えてなかったと思う。でも、今回の件で分かったの。お客さんのことを考えて、寄り添って、喜んでもらうって、どういうことか。あなたが教えてくれた」
しかし、こうも真正面から御礼を言われると、それはそれでなんだか照れくさい。カップを取り上げ、小さくすすってごまかした。
「ヒナはすごいね。どうやって、あなたを見つけてきたんだろう」
そういえば、マリーには、その話をしていなかったな。
俺は、初めてヒナと出会った日のできごとを、ひととおり説明した。
ヒナが路地で泣いているのを見つけて、持っていた弁当をあげたこと。その後、御礼にと食事を御馳走してもらった店で、親方と相席になり、ヒナが弁当の注文を取ったこと。
本人はあの時『迷子になった』と言っていたが、たぶん行き場をなくして路地に居たんだろうと話すと、マリーは「そうだね」と眉を下げた。
「私が初めてヒナに会ったのは、前に隊商が街に来た時でね。ヒナ、ずっとお姉さんの後ろをついて回ってて……とっても仲良しだった」
俺の知るヒナは社交的な少年で、いつも俺の手を引き、前をずんずん歩いていた。
姉の後ろにべったりというのは意外だったが、隊商は数年かけて移動しているらしいから、以前に来た時は、今のヒナよりずっと幼かったのだろう。
「お姉さんと離れ離れになって、寂しかったんだろうね。今回は、毎日のように事務所に遊びに来てた。お皿を並べたり、お茶を注いだり、まかないの仕事を手伝ってくれてね。でも、私が寝込んじゃったから……」
マリーはふと、そこで言葉を切った。俺の背後にある窓の外に、視線を向けている。時刻を確認しているのだ。
この街の住人たちは、太陽の位置でだいたいの時刻を把握していた。
圧倒的に晴天が多い街で、太陽の方角が分からないほどの雲に覆われることはまずない。街に時計が存在しないのは、技術力というより、必要性の問題なのだろう。
そういうわけで、彼らの時間感覚はおおむね二時間刻みであり、日の出から日没までを六分割しているようだった。
ようだ、というのは、会話に出てくる時刻は、俺の耳には日本語翻訳されて聞こえるからだ。
今まで聞いたかぎりだと、六時から十八時まで二時間刻み。日没から夜明けまでの間は時刻という概念が存在しないようだったが、特に困ったことはなかった。
「……ねえ。ヒナはいま、どこに居るのかな」
ふと、マリーがつぶやく。
「えっ? 公園に遊びに行ったんじゃないの」
「でも、まだ十四時だよ。子どもたちは、学校で授業中のはず。公園へ行って、誰と遊ぶの?」
ヒナは、学校に通ったことがない。いつ授業が終わるか分からなかったのかな、と最初は思った。
しかし、ただ遊びに行っただけならば、公園に誰も居ないのを見て、戻ってくるはずではないか?
「……あ」
もしかすると、ヒナはマリーと顔を合わせるのが気まずいのかもしれない。
俺も、祖母が亡くなった時、嘆き悲しむ母親のそばに居られず、退屈している兄や姉の子どもたちと、庭先で遊んでいたのだった。
◇ ◆ ◇
ふたりで、近所の公園へ向かった。
はたしてヒナは、他に誰も居ない公園で、ひとりポツンとブランコに座っていた。
「あっ」
俺たちを見とめると、気まずそうな顔をした。マリーはブランコの前へ進み出て、ヒナに柔らかく微笑みかける。
「迎えに来たよ。一緒に帰ろう、ヒナ」
「……別に、よかったのに。ちゃんと、暗くなる前に帰るよ」
「知ってる。でも、迎えに来たかったの。だめ?」
ヒナは無言で立ち上がると、マリーに駆け寄り、正面から抱きついた。マリーが優しく髪を撫で、背中をさする。
「ごめんね、寂しい思いをさせちゃって」
「ううん……ヒナがいけないの。マリーの気持ち、分からないから。そばに居ても、何もできないから……」
ヒナの声は震えていた。
俺たちがマリーの母の味を探している間、ヒナはひとりぼっちで、行き場を失くしていたのだ。かつて、路地で泣いていた頃のように。
「……私だって、ヒナの気持ち、本当には分かってあげられないよ。でも、寂しい思いをしている時は、一緒に居たい。ヒナは、何もできない私がそばに居るのは、嫌?」
「……嫌なわけ、ないでしょ」
「私も同じ。ヒナがそばに居てくれたら、それだけで嬉しいの。だから、一緒に帰ってお茶してくれる?」
「うん」
ヒナは嬉しそうに頷いて、マリーの手を握った。それからこちらを見て、もう片方の手を差しだす。
「ほら。もう帰るよ、トーヤ!」
「はいはい」
手を握ると、彼は嬉しそうにぐいと引き寄せた。それから、こちらを見上げて口を開く。
「ねえ。ヒナ、お菓子食べたい! 買って帰ろう」
「え、……あ、ごめん。俺、財布持ってきてないや」
「はあ。トーヤって、いつもお金持って歩かないの? 大人なのに」
「いやその……昨日のクッキー、まだ少し残ってるから、それじゃダメ?」
といっても、もう三人で満足に食べられるほどの枚数はなかったが、今は、却ってそのほうがいいのではないかと思った。
今のヒナは、菓子を食べたいわけじゃない。三人で食べたいのだ。
甘い菓子は、空腹ではなく、心を満たすもの。
一人で食べた一袋より、三人で分ける数枚のほうが、きっと、彼の心を満たしてくれることだろう。
第三章・第二節が完結しました。
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