3-21. 母の味
店の二階に戻り、温蕎麦の試作に取りかかった。
蕎麦を茹でる鍋にたっぷりのお湯を沸かしつつ、隣でつゆの準備をする。
ティーカップ三杯ぶんの水と、一杯ぶんの濃縮めんつゆを入れてひと煮立ち。これでだいたい四倍希釈になるし、分量的にも、二人前にちょうどいい。
麺用のお湯が沸騰したら、乾蕎麦を投入。茹で上がったらザルにあげ、深皿に盛りつける。最後に、上から温かいつゆを注げば完成。
「……お、終わり? これだけ?」
素焼き瓶にコルク栓をはめ込みながら、頷いた。
彼女はこれまで、蕎麦つゆを作るのに、イチからだしを取っていたのだ。その手間暇を考えれば、信じがたいほど簡単なレシピだった。
「食べてみようか」
ダイニングテーブルに深皿を置いた。マリーはまだ半信半疑の様子だったが、深皿にスプーンを沈め、つゆを口に運ぶ。
「……」
ひと口飲んだきり、彼女は完全に固まってしまった。
思い出したように、スプーンを置いた。宝石のように綺麗な青い目から、大粒の涙が頬を伝って流れだす。
「母さんの、……味」
声が震えていた。
しばらく、静かに口元を押さえていたけれど、やがて声を上げて泣きじゃくり始めた。今まで心の奥底に抑え込んでいた感情が、一気に決壊したようだった。
俺は、祖母が亡くなった時の母親の姿を思い出した。あの時は、同じように祖母の死を悲しめない自分が気まずくて、母親のことは姉に任せきりだった。
でも、今ここには俺しかいないのだ。
席を立って、マリーのそばへ移動する。掛ける言葉は見つからなかったし、今は何も言わないほうが良いと思った。ただ、ゆっくりと背中をさすった。
「……うっ、ひくっ」
どれくらいの間そうしていたのか、いつの間にか、窓の外は薄暗くなりかけていた。マリーは手のひらで目元を拭い、どうにか顔を上げる。
「……私、高等部に上がってから、ずっと演劇に夢中だったの。毎日、夕方まで稽古場にいた。家に帰ってごはんを食べたら、部屋にこもって、台本を書いたり、演出を考えたりしてた」
どこか遠い目をしていた。
たった一年前のことだが、マリーにとってはもう、演劇に熱中した日々は、遠い過去のできごとになってしまっているのだろう。
「あの日も、稽古場にいたの。夏公演の前でね。休憩中に、エリザ先輩が血相を変えて駆け込んできて……来た馬車に飛び乗って帰った。でも、家に着いた時にはもう、母さんとは話せなかった」
また涙があふれてきた。頬を伝って流れ落ちた雫が、エプロンに染みをつくる。
「母さんが居なくなって……私が、家事やまかないの仕事をするようになった。献立を考えて、買い物して、調理して、片づけて……一日三食、毎日だよ? どんなに大変なことか、自分でやってみて、初めて分かったの」
マリーは膝の上で、ぎゅっとこぶしを握った。小刻みに震えている。
「私、家で温かいごはんが出てくるの、当たり前だと思ってた。母さんが家族のためにどんなに頑張ってたか、考えたこともなかった。だからね……」
まだ後に何か続きそうだったけれど、マリーはそこで、一度沈黙した。
俺も黙っていた。彼女はいま、長らく口に出せずにいた想いを、打ち明けようとしている。本人の中で覚悟が決まるまで、そっとしておくべきだ。
「……、だからっ、……もし、私が演劇なんかしないで、家の手伝いをしてたら……母さん、倒れたりしなかったのかなって……なんで、こうなる前に気づけなかったのかなって……ずっと、ずっと後悔してて……っ」
ふたたび、大粒の涙があふれだす。
「マリー……」
おかみさんの死因が何だったのか、異世界の医療レベルでは、ハッキリとは分からなかっただろう。
でも、マリーはおかみさんを失い、自分で家事をするようになって初めて、家族の当たり前の生活を維持していく大変さを知った。
それで、思い詰めていたのだ。母の死は、家事に無関心だった自分のせいではないかと。
――マリーのせいじゃない。きっと周囲はみな口々に、彼女を慰めたに違いない。
でも、彼女自身は、納得できなかった。心配を掛けてはいけないと思い、周囲には気丈な姿を見せながら、内心で自分を責め続けていたのだ。
「……大丈夫。おかみさんは、ちゃんと他人を頼れる人だったよ」
俺は、おかみさんを知らない。彼女の人となりについて、何か語れる立場じゃない。
けれど今、その証拠が、マリーの目の前に置かれていた。素焼き瓶に入った、四倍濃縮めんつゆが。
「うん……」
マリーが落ち着いた頃には、蕎麦はとっくに冷え切っていた。
一人分ずつ鍋で温めなおし、ふたたび深皿によそった。麺はもはや、伸びているというレベルではなくなっていたが、マリーは嬉しそうにすすった。
俺も自席に戻り、つゆをひと口飲んだ。マリーの手づくり蕎麦つゆとは違うが、こちらも優しい味だった。
ましてこのつゆは、マリーにとって『弱った時に母親が作ってくれた温蕎麦の味』なのだ。泣き疲れた心に、さぞや沁みたことだろう。




