第九話:生理的嫌悪
第九話:生理的嫌悪
嫌悪は、理屈よりも早く来る。
理由を探す前に、身体が答えを出す。私はこの即答を、長いあいだ信用してきた。信用してきた、というより、利用してきた。
生理的に無理。
この言葉は、便利だ。
説明を省き、議論を断ち、関係を終了させる。
私はこの短い呪文を、何度も唱えてきた。
だが嫌悪は、外から来るものばかりではない。
鏡の前で、ふと自分にそれを感じる瞬間がある。
姿ではない。
癖だ。
声の出し方。
間の取り方。
相手を見るときの目の動き。
私は、自分が人を観察するときの顔を、嫌悪する。
評価する顔。
測る顔。
安全か危険かを、瞬時に仕分ける顔。
その顔は、あまりにも落ち着いている。
他人の不快さに、私は敏感だ。
だから先に不快になる。
先に嫌悪を表明すれば、主導権が取れる。
嫌悪は、盾だ。
だが盾は、常に腕を塞ぐ。
人混みの中で、吐き気がする。
匂い。
汗と整髪料と、甘い飲み物。
混ざった匂いは、責任の所在を曖昧にする。
私は曖昧さが苦手だ。
曖昧さは、境界を溶かす。
誰かの笑い声が、耳に刺さる。
高すぎる。
作りすぎている。
そう判断した瞬間、胸が締まる。
その判断が、かつての自分に向けられていることを、私は知っている。
嫌悪は、鏡だ。
だが、割れた鏡だ。
映るのは、断片だけ。
都合のいい角度だけ。
私は、自分が嫌悪している対象を、ノートに書き出したことがある。
大げさな身振り。
過剰な共感。
正義感の強調。
自己演出。
書き終えたあと、ページを閉じる。
胸が重くなる。
そこに並んでいるのは、私が生き延びるために身につけた技術ばかりだった。
左の親指を見る。
今日は噛んでいない。
噛まずに嫌悪を処理しようとしている。
処理という言葉が、また嫌悪を呼ぶ。
嫌悪は、排泄に似ている。
溜め込めば、身体を壊す。
だが、出し方を間違えると、周囲を汚す。
私はその両方を、恐れている。
誰かに触れられる。
一瞬。
肩が当たっただけ。
それでも、身体が強く反応する。
反応の強さに、私は自分で驚く。
これは過剰だ。
過剰反応は、過去を連れてくる。
過去を思い出す前に、私は歩く。
早く。
速さは、思考を置き去りにする。
置き去りにされた思考が、あとで追いついてくることを、私は知っている。
部屋に戻る。
ドアを閉める。
閉める音が、少し大きい。
その音に、安心する。
嫌悪は、内側に向かうと、自己破壊になる。
外側に向かうと、他者破壊になる。
私は、その中間を探している。
だが中間は、常に不安定だ。
画面を開く。
白が、こちらを見る。
嫌悪は、ここでは役に立たない。
白は、匂いを持たない。
温度もない。
私は、嫌悪を言葉にしようとして、止める。
言葉にした瞬間、それは主張になる。
主張は、正しさを呼ぶ。
正しさは、また別の嫌悪を生む。
嫌悪を、ただ感じる。
評価しない。
意味づけない。
この作業が、こんなにも難しいとは思わなかった。
胸の奥で、何かが静かに動く。
嫌悪ではない。
まだ名前のない感覚だ。
私は、その名前を急がない。
名前を与えると、使い始めてしまうから。
嫌悪は、私を守ってきた。
だが同時に、私を狭くした。
狭さに、私は慣れている。
だが、慣れが限界に近づいていることも、感じている。




