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第十話:愛憎の腐臭


第十話:愛憎の腐臭


 愛と憎しみは、同じ容器に入れると、必ず腐る。

 私はその匂いを、よく知っている。

 甘く、生ぬるく、逃げ場のない匂いだ。

 誰かを好きになるとき、私はいつも警戒する。

 警戒は、期待の裏返しだ。

 期待は、相手を食べる準備でもある。

 私は、与えるふりが得意だ。

 理解するふり。

 受け止めるふり。

 相手の痛みに寄り添うふり。

 その実、私は相手の弱さを、静かに収集している。

 使うためだ。

 いざとなったときに。

 憎しみは、突然現れるように見える。

 だが実際には、愛の底で、ずっと発酵している。

 言葉にしなかった不満。

 飲み込んだ違和感。

 見逃したふりをした軽蔑。

 それらが、泡になる。

 「あなたのためを思って」

 この言葉ほど、腐臭を放つものはない。

 私はこの言葉を、何度も使い、何度も浴びてきた。

 愛は、相手を生かすと言われる。

 だが私にとって愛は、相手の呼吸の仕方を、無意識に変えてしまう行為だった。

 私の機嫌を測る呼吸。

 私の沈黙を読む呼吸。

 気づいたとき、相手は私を見ていない。

 私の「可能な不機嫌」だけを見ている。

 その瞬間、憎しみが生まれる。

 なぜ、そこまで歪んだのか。

 なぜ、私を恐れるのか。

 なぜ、私を神経質な爆弾のように扱うのか。

 答えは単純だ。

 私が、そうさせた。

 左の親指を噛む。

 皮膚が破れ、金属の味がする。

 血は、愛憎よりも正直だ。

 出るべきときに、出る。

 私は、誰かに必要とされることに、強く依存している。

 必要とされない自分は、存在しないに等しい。

 その恐怖が、愛を膨張させる。

 膨張した愛は、重い。

 相手の胸に乗り、呼吸を奪う。

 そして私は、こう思う。

 ――なぜ、息苦しそうなのか。

 愛憎の腐臭は、別れ際に最も強くなる。

 優しくなろうとする声。

 分別ある大人を演じる態度。

 その下で、互いの内臓が、音を立てて溶けている。

 私は、別れの場面が好きだ。

 好きだと認めるのは、醜い。

 だが事実だ。

 別れは、唯一、感情が正直になる瞬間だから。

 取り繕う余裕がなくなる。

 本音が、腐ったまま露出する。

 泣く人。

 怒鳴る人。

 無言になる人。

 どれも美しい。

 生き物の反応だ。

 私は、感情を制御できる自分を、誇りに思ってきた。

 だが制御は、感情を死なせる。

 死んだ感情は、腐る。

 腐ったものは、臭う。

 隠しても、必ず漏れる。

 夜、布団に入る。

 誰かの体温を、思い出しそうになる。

 思い出す前に、嫌悪が割り込む。

 汗の匂い。

 皮膚の湿り。

 呼吸の重さ。

 私は、愛した人の身体を、最後には必ず嫌悪する。

 それは、防御だ。

 記憶を切断するための。

 だが切断されたはずの感覚は、夜になると蘇る。

 腐臭を伴って。

 私は、愛と憎しみを分けて書こうとして、失敗する。

 文章の中で、それらは必ず絡まり合う。

 絡まり合ったまま、解けない。

 解けないものを、私は「真実」と呼んできた。

 都合のいい呼び名だ。

 キーボードを強く叩く。

 音が、部屋に反響する。

 この音が、腐臭を追い払ってくれる気がする。

 だが、追い払われるのは、臭いではない。

 私の方だ。

 画面に残るのは、

 愛でも憎しみでもない、

 その中間で、腐りかけた言葉たち。

 私は、それを削除しない。

 今日は、消さない。

 腐ったまま、置いておく。

 腐臭に、慣れるために。

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