第七話:嘘に慣れた読者
第七話:嘘に慣れた読者
書く、という行為には、必ず相手が生まれる。
実在しなくてもいい。想像で十分だ。想像の相手は、扱いやすい。反論しない。途中で席を立たない。だが、慣れる。
私は、読者に慣れてしまった。
もっと正確に言えば、読者が私の嘘に慣れる速度を、読めるようになった。
この言い回しなら、ここで共感が来る。
この比喩なら、少しだけ胸が痛む。
ここで体の話を出せば、真実味が増す。
――そう考えた瞬間、文章はもう死んでいる。
嘘は、最初は異物だ。
だが繰り返されると、皮膚になる。
皮膚になった嘘は、剥がすと血が出る。だから人は剥がさない。私も、そうだった。
読者は賢い。
だから、賢くないふりをする。
すべてを理解した顔で読まれるより、少し戸惑ってもらう方が安全だ。私は安全を選んできた。
安全な文章は、優しい。
優しい文章は、裏切らない。
――裏切らない、という点で、致命的だ。
私は気づく。
読者は、私の痛みに反応しているのではない。
「痛みをうまく語れている私」に反応している。
それは賞賛だ。
私は賞賛を、恐れている。
恐れていると言いながら、遠くから確認する。距離を保ったまま、味わう。
この矛盾に、私は慣れすぎている。
画面を見つめる。
今書いている一文が、読者にどう届くかを、無意識に計算している。
その計算が、私を安心させる。
安心は、嘘の温床だ。
読者は、成長する。
私の語彙に慣れ、構文に慣れ、痛みの出し入れに慣れる。
慣れた読者は、次を要求する。
より深く、より黒く、より生々しく。
要求に応えることは、プロだ。
私はプロであることを、嫌悪している。
ある地点で、私は気づく。
読者より先に、私自身が慣れている。
自分の絶望に。
自分の破壊に。
慣れは、感情を平らにする。
平らになった感情は、表現しやすい。
表現しやすさは、危険だ。
左の親指を見る。
今日は、噛んでいない。
痛みを使わずに書けている。
そのことが、誇らしいと同時に、怖い。
痛みがなくても書ける。
それは成長か。
それとも、劣化か。
読者は、私が嘘をついていることに気づいているだろうか。
気づいていない方が、楽だ。
だが、気づかれていない嘘ほど、重いものはない。
私は、読者を裏切りたい。
だが同時に、裏切らない自分でいたい。
この二つの欲望が、文章の中で拮抗する。
拮抗は、美しい形を作る。
美しさは、嘘だ。
ここで、私は一度、筆を止める。
止める、という演出を疑う。
止めることさえ、読者に読まれている。
読者は、ここで何かが起きると期待する。
期待は、暴力だ。
私は期待に応えるか、拒むか、その二択を迫られる。
拒む。
私は、何も起こさない。
何も起こらない数行が続く。
続くことで、読者は不安になる。
不安は、嘘を剥がす。
この不安を、私は共有したい。
共有という言葉が、また嘘に近づく。
だから、共有しない。
私は、読者がいない場所で、書く。
少なくとも、そう信じる。
信じること自体が、最後の嘘だとしても。
画面は白い。
白は、慣れない。
私は、そのことに救われている。




