第五話:他人の正しさ
第五話:他人の正しさ
正しさは、いつも他人の顔をして現れる。
自分の内側から湧いた正しさは、不安定だ。揺れる。揺れるものは、主張にならない。だが他人の正しさは、完成している。角が丸められ、手触りがよく、配布用に整えられている。
私は、その正しさを見分ける訓練をしてきた。
声が大きいか、小さいかではない。
論理が通っているかどうかでもない。
正しさは、安心を先に約束する。
その約束が聞こえた瞬間、私は一歩下がる。
「あなたのためを思って」
この言葉が出たとき、私は心の中で数を数える。一、二、三。三つ数える間に、必ず次の言葉が来る。「普通は」「みんなは」「常識的には」。共同体が、肩を組んで近づいてくる。私は肩に触れられるのが苦手だ。体温の話ではない。重さの話だ。
正しさは、選択肢を減らす。
減らしたことを、親切だと呼ぶ。
私は選択肢が多い状態を、自由だと思ってきた。だが自由は、疲れる。だから人は、正しさを欲しがる。休憩所のように。私は休憩所に入らない。入ると、再び歩き出す理由を失う。
道化の技術は、ここでも役に立つ。
正しさに対して、真正面から反論しない。反論は、同じ土俵に上がる行為だ。私は土俵に立たない。
代わりに、自分を下げる。
「自分は変わっているから」
「理解が遅くて」
そう言うと、正しさは一瞬、戸惑う。戸惑いは隙だ。その隙に、私は場を抜ける。
だが、ある日気づく。
正しさは、追いかけてくる。
逃げる方向を変えただけでは、足りない。正しさは、形を変える。助言になり、忠告になり、最後は心配になる。心配は、最も扱いづらい正しさだ。拒否すると、こちらが残酷になる。
「あなたは悪くない」
この言葉を聞いたとき、私は背中が冷える。
悪くない、という判断は、誰のものだ。
判断された瞬間、私は被告になる。無罪でも、有罪でも、裁かれた事実は消えない。
私は、自分が悪いと言い続けてきた。
それは自罰ではない。防御だ。
自分で悪者になることで、他人の正しさが入り込む余地を減らす。悪者に説教する正義は、居心地が悪い。私は、その居心地の悪さに賭けてきた。
だが最近、自分の自虐が、正しさの一部になっていることに気づく。
「そこまで言わなくてもいい」
「自分を大事にしなきゃ」
その言葉が、私を包囲する。自虐が、救済を呼び込んでしまう。
救済は、正しさの完成形だ。
完成したものは、もう崩せない。
私は完成を恐れる。完成は、更新を拒む。
部屋に戻る。
白い画面を見る。
ここには、まだ正しさがない。
だが、正しさが入ってくる余地はある。私はそれを感じる。言葉を選ぶたび、読まれ方を想像してしまう。その想像が、正しさの入口になる。
左の親指を見る。
傷が、薄く塞がっている。
塞がるのは、正しい反応だ。身体は正しい。だが私は、その正しさに従う気になれない。治るということが、何かを認める行為に思える。
他人の正しさは、声を変えて、今日もやって来る。
私はそれを、完全には拒めない。
拒めないことを、私は知っている。
だから私は、ここに戻る。
白に向かって座る。
白は、正しくない。
それが、今の私には必要だ。
正しさの外側で、私は呼吸をする。
浅く、短く。
それでも、確かに。




