第四話:全消去①
第四話:全消去①
削除キーは、軽い。
軽さは罪だ。重ければ、躊躇が生まれる。だが削除は、いつも即座だ。考える前に、結果が起きる。私はこの即時性を、長く信仰してきた。後悔よりも、空白を選ぶ。
書いている最中、ふと、引っかかる。
一文だ。比喩だ。言い回しだ。
「体温が少し下がるまで」
――この言葉が、やけに整っている。
整いすぎた文章は、嘘だ。
嘘は、形がいい。触ると滑る。掴めない。
私は指を止める。画面を睨む。文字列が、こちらを見返してくる。文字は無表情を装うが、内心では私を測っている。
これは本当か。
いいや、違う。
これは、理解されるための文章だ。
理解されたい、という欲望が、どこから入った。
私は、誰に向かって書いている。
読者、という言葉が頭をよぎる。その瞬間、吐き気がする。読者は共同体だ。共同体は、慰めと評価を同時に運んでくる。私はどちらも拒否したはずだ。
左の親指が疼く。
噛む。
歯が、爪に沈む。
血が出る。今度ははっきり。温度が上がる。視界が、狭くなる。
キーボードを叩く音が、大きくなる。
音は、怒りに似ている。だが怒りではない。怒りは対象を持つ。これは、焦燥だ。対象がない。だから止まらない。
書く。
書いては、戻る。
戻っては、書く。
文章が、同じ場所を行き来する。前に進んでいない。円を描いている。循環だ。私は循環を恐れているはずなのに、いま、循環の中にいる。
気づいた瞬間、決断は早い。
全選択。
画面が反転する。
私の言葉が、まとめて捕まる。逃げ場がない。
削除。
音は、しない。
それが、いちばん残酷だ。
白が戻る。
白は、何もなかった顔をしている。
だが私は知っている。ここには、確かに何かがあった。消えたのではない。無かったことにされたのだ。
床に伏す。
額が冷たい。床は、嘘をつかない。重力を拒まない。
声が出る。喉の奥で、壊れた音が鳴る。言葉にならない。言葉にならないものは、正しい。
時間が過ぎる。
どれくらいかは、わからない。時計を見る勇気はない。時間を測ると、失敗の長さが数値になる。私は数値に弱い。
呼吸が落ち着く。
落ち着いた、という言い方も嘘だ。諦めたのだ。諦めは、感情の節電だ。長く生きるための。
椅子に戻る。
白を見る。
何も書かれていない画面は、私よりも正直だ。
私は、書き直さない。
同じことを書くのは、復讐だ。復讐は、相手を必要とする。ここに相手はいない。いるのは、私だけだ。
では、何を書く。
答えは出ない。
答えが出ない状態に、私は慣れている。慣れは、技術だ。技術は、私を裏切らない。
気づく。
全消去は、破壊ではない。
予防だ。
これ以上、嘘が増える前に、止める行為。
だが同時に、逃げでもある。
逃げは、形を変えて戻ってくる。
私はそれを知っている。
画面を閉じる。
今日は、もう書かない。
書かないことでしか、守れない真実がある。
立ち上がると、足が少し震える。
震えは、生きている証拠だ。
生きていることを、私はまだ、否定しきれていない。
全消去のあとに残るのは、
空白ではない。
次に壊れる場所の、輪郭だ。




