第1話「再会の祝杯」
アデルバイド王国の動乱が終結し、平穏が訪れた歴史的な日から数週間。
世界が「平和」という名の慣れない事務手続きに追われる中、ゼノンとルナは、ある長閑な田舎町に降り立っていた。
「……ルナ。ネクタイの結び目は左右対称ですか。眼鏡のレンズに指紋は?」
道端のショーウィンドウを鏡代わりに、ゼノンがこれまでにないほど入念に身だしなみを整えている。
『ゼノンさーん、もう15回目ですよ!
大丈夫、今のゼノンさんはどこからどう見ても「非の打ち所がない完璧な事務屋」です!
さあ、胸を張って! 憧れの所長に会いに行くんでしょう?』
「……憧れ、などという主観的な感情ではありません。
私はただ、組織の長に対して、最低限の礼儀を尽くしているだけです」
そう言いながらも、ゼノンの手は微かに震えている。
彼らが辿り着いたのは、町外れの丘の上に建つ、古びた喫茶店『アンバインド』。
看板には「営業中」の札と共に、「本日、コーヒーの豆が『マメ(まめ)』に挽けてます」という脱力感溢れる手書きのメモが添えられていた。
ゼノンは深呼吸をし、意を決して扉を開いた。
カランカラン、と乾いたベルの音が店内に響く。
「――いらっしゃい。……おや、その重苦しい足音。
さては、仕事が『順調』すぎて、顔が『校長』先生みたいに固まってるね?」
カウンターの奥で、黄金色に輝くネルドリップを操る男が顔を上げた。
整えられた銀髪、知性を湛えた目尻の皺、そして仕立ての良いエプロン。
かつて大陸中の汚職ギルドを書類一枚で解散に追い込み、国家予算の不正流用をたった一晩の監査で暴き出した伝説のエージェント。
アンバインド創設者、オーウェンその人であった。
「……所長。お久しぶりです。……ただいま戻りました」
ゼノンが直立不動の姿勢から、正確に45度の角度で頭を下げる。
「まあ座れよ、ゼノン。……おっと、椅子に座る時は『良いっす(いっす)』って言うのがこの店の規約だぞ? なんちゃって」
「…………」
『あははは! 期待を裏切らないキレッキレのギャグ!
所長、お元気そうで良かったです!』
「ルナちゃんも、その演算機能は健在のようだね。
さあ、ゼノン。君のために特製のブレンドを淹れよう。
今の君には、この『苦み(にがみ)』が『旨み(うまみ)』に感じるはずだ。……苦労しただろう?」
オーウェンが差し出したカップから、芳醇な香りが立ち上る。
ゼノンは一口啜り、その完璧な温度と味わいに、張り詰めていた肩の力がわずかに抜けるのを感じた。
十年前。研究所の瓦礫の下で死を待っていた自分に、この男は言ったのだ。
『絶望を退職して、私の下で働かないか』と。
ゼノンにとって、オーウェンは命の恩人であり、師であり、そして――
「ギャグで空気を凍らせることで、敵の思考を停止させる」という高等技術を使いこなす、究極の理想像であった。
「……所長。本日は、海洋都市『アクア・リブラ』に関する報告と、ご相談に参りました」
「ああ。……あそこの『水』は、少しばかり『ミス(みず)』が多いようだね」
オーウェンの目が、一瞬で鋭い「プロの眼」へと変わる。
「帝国の残党が、海底の秘密プラントで再び『生体演算機』の開発を進めている。
ターゲットは、カナデという名の少女。……そして、そこにはもう一人、厄介な男が関わっている」
「……カイン、ですね」
ゼノンがその名を口にすると、店内の気温が物理的に下がったような錯覚を覚えた。
「そうだ。私のもう一人の教え子であり、君の同期。
彼は事務で鍛えたような……おっと、このギャグは前にも言ったかな。
とにかく、彼は君の『退職』を阻む、最強の『再契約』の専門家だ」
オーウェンは、カウンターの下から重厚な黒革のバインダーを取り出した。
それは、アンバインド設立時から使われている、伝説の「特殊解約書」の原本。
「これを持っていけ、ゼノン。……カインのロジックは、並の書類では貫けない。
だが、忘れるな。……事務仕事とは、人を支配するためにあるのではない。
絶望している誰かに、『出口』を指し示すためにあるのだということを」
ゼノンは、跪いてそのバインダーを両手で受け取った。
「……承知いたしました。
……所長。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだい? 借金の相談なら『貸し(かし)』はないけど『歌詞』なら作ってあげるよ?」
「……いえ。……私も、いつか所長のように、
その……『洗練された冗談』で、現場の緊張を緩和できるようになれるでしょうか」
「…………」
オーウェンは一瞬呆気に取られたように目を見開き、やがてナイスミドルな笑みを浮かべて、愛弟子の肩を叩いた。
「ゼノン。……君は、今のままの君でいい。
君が真剣であればあるほど、世界は君の誠実さに救われるのだから」
「……過分なお言葉、痛み入ります」
ゼノンは再び深く一礼し、喫茶店を後にした。
その背中を見送りながら、オーウェンは独り言ちた。
「……頑張れよ、ゼノン。……ちなみに、今の『痛み入る』と『煎り豆』をかけて返そうと思ったが……。
さすがに、少し寒すぎたかな」
伝説の所長の激励を胸に、ゼノンとルナは、青い海に浮かぶ不夜城――アクア・リブラへと向かう。
そこには、過去の自分たちを救うための、最も困難な「事務作業」が待っていた。
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