松の思い出
道場には、顔見知りがたくさん来ていた。そして、庭では茜や織り、近所の女性たちが炊き出しを振る舞っていた。
「織りさま、どちらへ?」
お椀を持って何処かへ向かう織りに気づいた茜は、おにぎりを子供たちにわたしながら尋ねる。
織りは、ニッコリ笑って答えた。
「同胞への労いですわ」
そう言うと、パタパタと砂利をはたいて道場の奥へと消えていってしまった。茜は、その姿を見送りながら、近くに植えてある松の木を見やる。
その松の木は、たくさんの松ぼっくりをつけていた。それを幼い織りと清介は二人で拾っていた。そして、それを投げては竹刀で打っては道場の屋根に乗せて遊んでいたのだ。
(月日が経つのは、案外あっと言う間なのね・・・)
茜は一人ごちると、おにぎりを持って自分も道場の奥へと向かった。
道場の扉は開け放ってあり、中では道場の生徒たちを筆頭に町内の男たちが酒を飲みながら今日のことを談笑しあっていた。
織りは入り口からひょこっと中を覗き、目当ての人物を探す。
(あら・・・)
目当ての人物が見つからない。
織りは小首をかしげてもう一度外も見回す。
(どこに行かれたのかしら・・・)
織りは入り口で椀をもったまま立ち尽くす。戻って来たのは確認したのだが、そのあとは炊き出しを振る舞っていたのでどこに行ってしまったのか見損ねてしまったのだ。
どうしたものか、と考えていると頭上でひばりが鳴いた。
それを目で追う。
すると
「こんな所に突っ立っていたら、邪魔ですよ」
横から聞きなれた声がした。織りは誰かと確かめる事もなく、振り返りながら答える。
「せっかく、今日の労いをと思い、汁物を持ってきましたのに、本当に可愛くありませんわね、清介さんは」
織りが振り返った先には、汗を流して着替えを済ませた清介が手拭いを持ったまま立っていた。織りの言葉に口の端を持ち上げる。
「まさか、織りさんが俺の為に?」
「そうですわよ」
ツンとした態度で答える織りは、どうぞ、とそっと椀を渡す。
清介はそれを受け取りながら、ふっと笑った。
「うまそうだ・・・。頂きます」
珍しく憎まれ口も叩かずに言う清介に、織りは、きょとんとした。そして、
「立ったままでは、お行儀が悪いですわよ」
そう言って、清介に座るように促した。
「うん。ちょっと話をしませんか?」
清介は椀を持ったまま、織りの返事も聞かずに踵を返して歩き始める。織りは、いつもとは様子の違う清介に戸惑いながらも黙ってその後に続いた。
清介の、自分に対する淡い仄かな想いに気づいていないわけではない。しかし、清介がこちらの立場や自分の立場や、周りの色々な人間関係など。全てをなぎ倒して己の想いに忠実な人間だとも思わない。
そんな、清介の律儀さに安堵して接することは、もしかするとズルいのかも知れない。
しかし、織りは幼なじみとして、道場に通う好敵手として、清介との関係を崩したくないと思っている。
(わたくし、こんな人間だったのね・・・)
そんなことを考えながら清介の後に着いていくと、炊き出しをしていた庭に来た。そして、大きな松の木の下にどっかり座る。
「松太朗殿は?」
さっそく汁物を食べ始めた清介が尋ねる。
織りは、袂から笹に包まれたおにぎりと漬け物も渡してやる。
「水村さまと碁を打ってらっしゃいますわ。お酒のお相手をしながら」
「ふぅん。ずいぶん、あのお二人は気が合うのだな」
自分たちよりも大人の付き合いをしている。それが心地よいのではないか、と織りも清介も思う。
「今日はお疲れさまでしたわね」
おにぎりをあっという間に平らげる清介に、織りは微笑んだ。
「わたくしには到底無理なことでしたわ」
「いや、あれは日頃から鍛練を怠ってはいけないな・・・。竹刀を振っている方がずっと楽だ」
もう、来年は勘弁してほしい、と清介が愚痴る。
「でも、すごいじゃないですか。最後まで走りきったんですもの」
織りの言葉に、清介は首をかしげる。
そして、箸を置いた。
「走りながら考えておったのだが・・・」
そう言って清介はおもむろに立ち上がると、織りと向き合った。
この木の松ぼっくりを二人で拾っていた頃より、大きくなった自分。いつから、織りをこうやって見下ろせるようになったのか。
いつから、織りには加減をしてやる必要ができたのだろう。
「俺は、織りさんに懸想していると気づいた」
走っているときよりも赤くなった清介は、竹刀を握っているときのように鋭く、しかしどこか困ってもいるように、見える真剣な面持ちで織り低く囁いた。
そして、どこか儚くもスッキリしたように微笑んでみてたのだった。
道場のざわつきが風邪に運ばれてくるなか、織りは突然の告白にどうしたものかと、混乱していた。
「あ・・・あの・・・わたくしには・・・」
「うん、分かっている。だから、最後まで聞いてほしい」
そう言いながら、清介は飲み干した椀に目をやる。
「織りさんは、松太朗殿の大切な嫁御だ。それは、見ていて分かるし、二人の幸せを壊すつもりもない。それに・・・」
清介はすっと顔を上げた。
曇りなき瞳で、まっすぐに織りを見つめる。
「これも、走りながら考えたのだが・・・」
「はい?」
「やはり、家事の出来ん女を嫁にするのは嫌だ」
迷いのない、強い意思のこもった眉に、口許を二ッとつりあげて、清介はハッキリと言った。
この笑顔だけであったなら、うら若き乙女を数人くらいは腰抜けにさせられるかも知れない。そのくらい、若者らしく爽やかで凛々しい笑顔だった。清介は、その笑顔のまま、目を点にする織りに言う。
「俺は家事において、女に引け目をとることはない。完璧にやれると自負している。だが、やはりわが嫁がからっきしとなると、それは嫌だと分かった!」
「ま、まぁ・・・、わたくし、なんだかずいぶんな言われようですわねぇ・・・」
口の端をふるふると震わせながらも、ひきつった笑顔で強気に返す織りに清介は腕くみして見せる。
「しかし、真のことであろう」
ピクッと織りのこめかみも引きつる。そんな織りに、いつものようにどこか意地悪な笑顔になった清介が続けた。
「そんな女の夫は、松太朗殿くらい能天気な御仁にしかつとまらん」
「んっまぁぁ!なんと言う憎まれ口っ」
「憎まれ口ではない、事実だ‼」
二人は幼い頃のように、松の下で喧嘩をした。
走り終わったばかりの清介を、織りが追いかけ、捕まえ、何やら怒鳴っている。言われた清介も、ニヤニヤしながら、何か言い返しているようである。
「飽きもせず、よくやりますねぇ・・・」
その様子を、奥の縁側から覗き見していた水村と松太朗が、小さくため息をついた。