第8話「逃げない選択」
実習室。
朝からざわついている。
「この前のケースさ」
「ラーナの判断やばくなかった?」
そんな声が、あちこちから聞こえる。
「でもレオもすごかったよね」
「うん、あの2人なんなの」
軽い笑い。
⸻
ラーナは、その中にいた。
何も言わず。
いつも通り。
ただ。
(……見られてる)
視線を感じる。
そして。
「おはよ」
軽い声。
レオだった。
いつも通り。
いつも通り、すぎるくらい。
(……普通)
昨日の距離なんて、なかったみたいに。
「……おはよう」
短く返す。
でも。
(……近い)
立っている位置。
距離。
視線。
(意識してるの、私だけ?)
一瞬、思う。
――その瞬間。
(……いや)
小さく、思考を切る。
(それで避けるのは違う)
でも。
足は、わずかに後ろへ引いていた。
気づいている。
自分でも。
(……逃げてる)
(らしくない)
レオが、それを見ている。
「……あれ」
小さく笑う。
「今日、距離遠くない?」
軽い言い方。
でも。
逃がさないやつ。
「気のせい」
即答。
「いやいや」
一歩、近づく。
ラーナは一歩引く。
——一瞬、間。
レオの目が、細くなる。
(……やっぱり)
分かりやすい。
「……ふーん」
それ以上は、追わない。
でも。
少しだけ、楽しそうに笑った。
(逃げてる)
(じゃあ、もう少し)
実習が始まる。
グループ分け。
当然のように。
「ラーナとレオ、こっちね」
同じ班。
(……最悪)
心の中だけで呟く。
横に並ぶ。
距離が近い。
ラーナは、少しだけ体をずらす。
レオは、それを見て。
何も言わずに、同じ分だけ詰める。
(……っ)
無言の攻防。
「じゃあこれ、どうする?」
レオが、普通に話しかける。
「……こう」
ラーナは、最低限で答える。
「理由は?」
近いまま。
「……必要だから」
「雑」
即ツッコミ。
「……」
少しだけ、イラつく。
(……やりにくい)
集中しようとするほど。
距離が気になる。
視線が気になる。
声が近い。
(……なんで)
ペースが崩れる。
ラーナは、一度手を止める。
ほんの一瞬。
考える。
(……このままじゃ)
ダメだ。
(逃げてるだけ)
一拍。
(……負ける)
その瞬間。
思考が切り替わる。
ラーナは、ゆっくり顔を上げる。
「……レオ」
一瞬。
レオの思考が、止まる。
「……ん?」
返事が、わずかに遅れる。
少しだけ、意外そうに見る。
ラーナは。
一歩、近づく。
今度は、自分から。
距離を詰める。
レオの目が、わずかに動く。
(……え)
「そこ」
ラーナが指を伸ばす。
レオのノート。
さっきと同じ距離。
今度は、ラーナ側から。
「違う」
淡々と。
「条件、読み飛ばしてる」
一拍。
レオの思考が、止まる。
(……は?)
完全に、同じ構図。
でも。
立場が逆。
ラーナは、そのまま続ける。
「ここ」
さらに少しだけ、近づく。
距離が、詰まる。
髪が揺れる。
耳元。
前に見つけた小さなピアスが、視界に入る。
(……近)
「こうじゃないと、成立しない」
声が近い。
逃げない。
視線も、逸らさない。
レオが、初めて言葉を失う。
(……こいつ)
さっきまでの“逃げ”が、嘘みたいに。
踏み込んでくる。
「……合ってる?」
ラーナが、静かに聞く。
一瞬。
レオが、息を詰める。
ほんのわずかに。
間ができる。
「……合ってる」
低く返す。
ラーナは、頷く。
それだけで。
元の位置に戻る。
何もなかったみたいに。
レオは、そのまま動けない。
(……今の何)
一拍。
(……やば)
(それやるのかよ)
口元が、抑えきれずに歪む。
「……なるほどね」
小さく呟く。
ラーナは何も言わない。
でも。
さっきより、呼吸が安定している。
(……逃げない)
決めたから。
レオが、ゆっくり息を吐く。
「……いいじゃん」
ぽつりと落とす。
「そういうの」
一拍。
「ちゃんと来るんだ」
さっきより、低い声。
ラーナは、視線を動かさずに。
「逃げる理由ないから」
淡々と返す。
一瞬。
視線がぶつかる。
今度は、どっちも逸らさない。
周りの声が、少し遠くなる。
その空気だけ、少し違う。
レオが、ふっと笑う。
「……いいね」
今までより、少しだけ熱のある声。
「じゃあ遠慮やめるわ」
静かに、落ちる。
ラーナの指が、ほんの一瞬だけ止まる。
でも。
すぐに、動き出した。
——もう、逃げないまま




