第10話「圧」
――初日。
ノルドハイム医療院。
自動ドアが開く。
冷たい空気と、独特の匂い。
消毒液。
金属。
静かな緊張。
「うわ、ちゃんと病院って感じ」
レオが軽く言う。
「当たり前でしょ」
ラーナは前を見たまま返す。
⸻
受付を済ませる。
案内される。
長い廊下。
音が違う。
足音が、やけに響く。
(……静かすぎる)
学校とは、全然違う。
案内役の人が、足を止めた。
「こちらです」
ドアの前。
「指導医の先生がいらっしゃいます」
一拍。
ノック。
「失礼します」
ドアが開く。
――中に、いた。
ヘンリー・グレーテル。
「……」
白衣。
机の前。
書類に目を落としたまま。
顔を上げる。
一瞬。
空気が変わる。
(……なんだこれ)
レオの思考が、ほんの一瞬止まる。
何もしていない。
ただ、見ただけ。
それだけで。
(重い)
圧。
説明できない類のもの。
隣で、ラーナが一歩前に出る。
「本日から実習でお世話になります」
きれいな声。
迷いがない。
「ラーナ・ソルフェーズです」
一拍。
ヘンリーの視線が、向く。
ほんのわずかに。
止まる。
「……ああ」
それだけ。
でも。
(……今の何?)
レオは見逃さない。
“一瞬だけ、認識した”感じ。
次に、視線がレオに向く。
「レオ・ウィーザスです」
いつも通り、軽く言う。
でも。
(……やりにく)
なぜか、言葉が少しだけ削られる。
ヘンリーは、短く頷く。
「ついて来い」
それだけ。
立ち上がる。
無駄がない。
そのまま歩き出す。
「……え、もう?」
思わずレオが小さく言う。
返事はない。
ラーナは、すぐに後を追う。
(早……)
レオも続く。
廊下。
歩きながら、ヘンリーが言う。
「ここでは見学じゃない」
一拍。
「動け」
短い。
それだけで、意味は十分だった。
(あー、これ)
(甘くないやつだ)
レオの口元が、少しだけ上がる。
嫌いじゃない。
むしろ。
(面白い)
そう思った瞬間。
「先生」
声がかかる。
看護師。
「急患です」
一瞬で、空気が変わる。
ヘンリーの足が止まらない。
「行くぞ」
それだけ。
走る。
ラーナが、迷わずついていく。
レオも追う。
(初日からこれ?)
でも。
足は止まらない。
処置室。
ストレッチャー。
慌ただしい声。
「バイタル不安定!」
「血圧下がってます!」
情報が飛び交う。
ヘンリーが入る。
一瞬で。
中心が変わる。
「ルート確保」
「酸素」
「モニター」
速い。
迷いがない。
(……は?)
レオの目が、わずかに見開く。
知識はある。
流れも分かる。
でも。
(速さが違う)
“判断”の速度。
躊躇がない。
ラーナは、その横にいる。
目が、完全に“現場”になっている。
レオの知っている顔じゃない。
(……何それ)
少しだけ、息が詰まる。
ヘンリーが、短く言う。
「そこの二人」
一瞬、視線が来る。
「見てるだけなら邪魔だ」
冷たい。
「動け」
言われた瞬間。
ラーナは、もう動いている。
「これ、準備できます」
指示を待たない。
必要なものを取る。
レオは一瞬遅れる。
(……っ)
すぐに動く。
でも。
(遅れた)
その事実だけが残る。
処置は続く。
数分。
長くも、短くも感じる時間。
「……安定してきた」
誰かが言う。
空気が、少しだけ緩む。
ヘンリーは、最後まで確認して。
「経過観察」
それだけ。
一歩下がる。
静かに、終わる。
レオは、その場に立ったまま。
(……なんだ今の)
頭では理解している。
でも。
(全然違う)
見ていた“医療”と。
今、目の前で起きたもの。
ラーナが、横にいる。
呼吸が、少しだけ速い。
でも。
目は、落ち着いている。
(……こいつも)
(ちゃんと、ついていってる)
一瞬だけ。
悔しさに似た感覚が、浮かぶ。
そのとき。
「……ラーナ」
低い声。
ヘンリー。
視線が、向く。
「今の」
一拍。
「悪くない」
それだけ。
短い評価。
でも。
ラーナの呼吸が、ほんの少しだけ変わる。
「……はい」
それだけ返す。
それだけなのに。
(……何それ)
レオの中に、違和感が広がる。
(なんで)
(あいつ、あんな顔するんだよ)
ほんのわずか。
柔らかくなった一瞬。
自分には向けられないもの。
その感覚だけが、残る。
ヘンリーは、もう次に向かっている。
「次行くぞ」
止まらない。
ラーナも、すぐに動く。
レオは、その後ろで一瞬だけ立ち止まる。
(……はは)
小さく笑う。
(やば)
(めっちゃ面白いじゃん、これ)
でも。
その奥で。
ほんの少しだけ。
知らない感情が、残っていた。




