7. ロザリア様の隣に立つために
名前を呼ばれた瞬間、足先が氷のように冷えていく。立ち上がろうとした膝にうまく力が入らない。
教卓まで歩くほんのわずかな距離が、ひどく長い。
教師から答案を受け取る手がかすかに震える。顔を上げることができず、教師の顔を見ることもできなかった。
教室のどこかからくすくすと笑う声が聞こえ、消えてしまいたくなる。
その日はどんな風に授業を受け、どんな風に放課後を迎えたのか、ほとんど覚えていない。
気づけば私は放心状態のまま馬車に乗り、向かいに座るロザリア様に震える声で謝っていた。
「も、申し訳ございません、ロザリア様……」
頭を下げる。膝の上で握った手が、情けないほど震えていた。
私の謝罪を聞いたロザリア様は淡々と言った。
「編入してまだ二週間しか経っていないのだし、気にする必要はないわ」
慰めの言葉だった。だが胸の奥に込み上げてきたのは安堵ではなく、悔しさだった。
私は唇を噛み、拳を握りしめる。
エルフェリア王立学園は、国内でも一番の学園だ。高位貴族や有力貴族の令嬢が集まり、将来国を支える者たちが学ぶ場所である。
当然、成績も重視される。月に一度は中規模の試験が行われ、その答案は成績の良い順に名前を呼ばれて返却されるのだ。
そして今日、私は一番最後に名前を呼ばれた。
全員の前で、クラス最下位だと告げられたのである。
私一人の失敗なら、まだよかった。だが私は、ロザリア様の推薦でこの学園へ編入している。学費まで負担していただいている身だ。
そんな私が最下位になった。
その事実がロザリア様の名に傷をつけてしまったようで、羞恥が全身に広がっていく。
そんな私を見て、ロザリア様は静かに名前を呼んだ。
「ソレイユ」
「は、はい」
「しばらく侍女の仕事は休みなさい」
息が止まり、頭が真っ白になる。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「い、いえ! お休みをいただかなくても、次回の試験では必ず──」
「そんな顔で働かれるのも、試験で点を取れずに悩まれるのも、どちらも迷惑よ」
ぴしゃりと言われ、私は言葉を失った。
ロザリア様の赤い瞳がまっすぐに私を見据えている。
「中途半端に両方やろうとするのはやめなさい」
「っ……はい」
正論だった。私は拳を握りしめ、うつむいた。
ロザリア様に呆れられてしまった。その事実が何より辛い。
馬車の中に、重い沈黙が落ちる。車輪の音だけがやけに大きく聞こえた。
やがてロザリア様は消え入りそうな声で言った。
「……分からないことは、聞いていいから」
あまりにも小さな声だった。私はばっと顔を上げる。
ロザリア様は、馬車の外へ視線を向けていた。窓の向こうを眺める横顔は、いつも通り美しかった。
胸の奥にじわりと熱が戻ってくる。
ロザリア様は私を見捨てたわけではない。私が立ち直るために、厳しい言葉をくれたのだ。
膝の上で拳を握り直す。
(何としてでも、一か月で結果を出す……!)
その日から、猛烈な勉強の日々が始まった。
朝五時に起き、夜十二時に眠る。前世では高校受験のために猛勉強したことがあるが、あの頃以上かもしれない。
勉強は嫌いではなかった。前世では県内の進学校に通っていたし、試験や模試の勉強もそれなりにこなしていた。
しかし、この世界の学問は前世とはまるで違うのがネックだった。今回の試験でも、貴族法と魔法学の点数が伸び悩み、それが最下位という結果に直結してしまった。
(それでも、やるしかない!)
机に向かい、一心不乱にペンを動かす。分からない単語を書き出し、教科書を何度も読み返し、間違えた問題を繰り返し解いた。
学園の休み時間にも、馬車での登下校中にも、私は教科書を開き続けた。少しでも時間があれば頭に叩き込んだ。
学園が休みの日も同じだった。朝から机に向かい、ノートにペンを走らせ続ける。
太陽が高く昇った頃、扉を叩く音でようやく我に返った。同時にお腹が盛大に鳴る。
「……っ」
慌てて腹を押さえながら返事をすると、扉の向こうから先輩メイドのミタリーが入ってきた。
手にはトレイを持っており、カップとサンドウィッチが載っていた。
「ソレイユ、大丈夫?」
「は、はい……!」
「全然大丈夫そうじゃない顔ね」
ミタリーは苦笑しながら、机の端へトレイを置いた。
「これ、食べて。メイドたちみんな応援しているわ」
彼女たちの優しさに、じわりと涙が滲む。
「ありがとうございます……!」
「いいのよ」
ミタリーはやわらかく微笑んだ。
しかし次の瞬間、その目がすっと細くなる。
「ここ数日、ロザリア様の機嫌が大変悪いの」
「え」
「だから貴方は、ちゃんと食べて、ちゃんと勉強して、次の試験で良い成績を取ってね?」
「は、はい」
有無を言わせぬ圧に、私はこくこくと頷いた。
ミタリーは小さく息を吐き、少しだけ声を落とす。
「……ロザリア様を安心させてあげなさい」
その言葉に胸が詰まる。
私は強く頷き、サンドウィッチを口へ運んだ。
数日後。
馬車の中で教科書を開いていると、ロザリア様は鞄から一冊の書籍を取り出した。そして私に差し出す。
「こ、こちらは?」
「もう使わないから、あげるわ」
「!」
私は両手で受け取った。
表紙を見ると、どうやら貴族法に関する参考書らしい。
「ありがとうございます!」
(ロザリア様から本をいただけるなんて!)
胸がいっぱいになり、私は大切に抱えるようにして部屋へ戻った。
しかし参考書を開いた瞬間、息を呑む。
空白部分に細かな字がびっしりと書き込まれていた。全てロザリア様の字だった。何度も読み返し、考え、理解しようとした跡がそこに残っていた。
視界がじわりと滲み、私は慌てて袖で涙を拭う。
そうだったと私は改めて痛感する。ロザリア様は決して表には出さないが、血が滲むような努力を積み重ねてきた人なのだ。
(必ず、次の試験では良い成績を取る)
私は参考書を抱きしめるようにして、強く誓った。
散々な目にあった試験から一ヶ月後。
再び試験を受け、答案が返却される日がやってきた。教室に入ると、アネットとロレーヌの声が耳に届く。
「試験の返却、楽しみですわね」
「ロザリア様のお顔が泥だらけにならないといいのですが」
私は何も言い返さず、着席した。名前が呼ばれるその時を待つ。
やがて答案の束を手にした教師が教室へ入ってきた。
教室の空気がわずかに引き締まる。教師は一枚目を手に取り、名前を呼んだ。
「ロザリア・ヴァレンティーノ」
「はい」
前回も今回も、一番に名前を呼ばれたのはロザリア様だった。
彼女は誇ることもなく、いつも通りの落ち着いた足取りで答案を受け取りに行く。教室中の視線が、それを当然の結果として受け止めるように彼女へ向けられていた。
やがてロザリア様が席へ戻ると、教室の空気がわずかに張り詰める。
次に誰の名前が呼ばれるのか。誰も口にはしないが、全員が耳を澄ませているのが分かった。
努力はした。できることは全部やった。それでも、名前を呼ばれるまでは結果など分からない。
膝の上で握った手にじわりと汗が滲む。
そして教師は、次の名前を呼んだ。
ソレイユがいなくて不機嫌なロザリアかわいいですね(本人には絶対言いませんが)




