6. 学園生活は前途多難です
二ヶ月後。風の中に、春の匂いが混じり始めていた。
ふわりと漂ってくる花の香りに、思わず頬がゆるむ。
そして隣を歩くロザリア様を見た瞬間、頬が完全に溶けた。
「そのだらしない顔を何とかしなさい」
「すみません!!」
冷え切った声に、私は即座に背筋を伸ばした。
慌てて表情筋を引き締める。だが、ゆるみきった頬はなかなか元に戻ってくれない。
目の前にはエルフェリア王立学園の荘厳な校舎がそびえ立っている。レンガで築かれた壁、尖塔の先で春の日差しがきらめいている。その光景は、この世界に来てから何度も見てきたものだ。
だが今日の私は侍女としてではない。生徒として、ここに立っているのだ。
「ロザリア様と一緒に通学できるなんて……! 感激の極みです!!」
「大袈裟ね」
ロザリア様は呆れたように笑った。
そんな彼女に笑みを返し、私は自分の制服を見下ろす。四年生の証である橙色のリボン。仕立ての良いブレザーに、揺れるプリーツスカート。
今朝、鏡の前でこの姿を見たときは何度も飛び上がりそうになった。
(まさか、学園の制服を着られるなんて……!)
前世で制服を着ていたのは、(自主規制)年前である。しかも私の高校はセーラー服だった。
もちろんそれはそれで思い出深いが、こんな可愛いブレザータイプの制服にはずっと憧れがあったのだ。
さらにソレイユは女性にしては背が高く、顔立ちも整っている。鏡に映った姿は正直かなり似合っていた。
(今度、ヴェルにも見せに行こう)
遠く離れた友人の顔を思い浮かべながら、私はロザリア様と並んで校舎へ向かった。
校舎の中は、朝のざわめきに包まれていた。廊下には制服姿の生徒たちが行き交い、あちこちで挨拶や笑い声が飛び交っている。
隣を歩きながらロザリア様は言う。
「まさか同じクラスになるとは思わなかったわ」
「毎日祈った甲斐がありました!」
胸を張って答えたが、ロザリア様には華麗に聞き流された。
そう、なんと私はロザリア様と同じクラスに編入できたのだ。ヴァレンティーノ家の推薦だから配慮されたのかと思ったが、クラス分けに推薦者の意向は反映されないらしい。
つまりロザリア様と同じクラスになれたのは、完全に運命だったのである。
「ロザリア様の授業を受けるお姿を見られるなんて……!」
「授業中にじろじろ見たら許さないからね」
「もちろんです!」
私は力強く頷いた。見るとしても、ちらちらちらちらと控えめに見るだけである。
教室へ着くと、私は指定された席へ向かった。ロザリア様は窓際。私は廊下側の席だった。
離れてしまったことに少しだけ肩を落とす。だが幸いにも、私はロザリア様より後ろの席だ。角度によっては美しい横顔を拝むことができる。
(これは……良席では?)
密かに拳を握っていると学園のベルが響いた。
教師が教室へ入室し、生徒たちは一斉に席へ着く。短い挨拶のあと、全員で女神アストレイヤへ祈りを捧げた。
祈りが終わり、一限目の王国史が始まる。
(原作で出てきた設定が! こんなに詳しく!!)
教科書に並ぶ単語を見ただけで、胸が高鳴る。
原作ではさらりと触れられていた単語が、教師の口から次々と説明されていく。まるで設定資料集を目の前で読み上げられているようだ。
だが、喜んでいられたのは最初の五分だけだった。
教師は黒板に年号を書き連ねながら、淡々と説明を続ける。神託が下された年や王家と教会の協定が結ばれた背景。北方貴族の反乱が起きた原因と、その後に結ばれた同盟。
情報が息つく暇もなく積み上がっていく。
(の、脳がショートしそう……!)
学園に編入すると決まってからの二か月間、私はロザリア様から教科書を借りて基礎を勉強してきた。侍女の仕事を終えたあとに机へ向かい、分からない単語を調べ、何度も読み返した。それなりに頑張ったつもりだった。
だが、その基礎ごと吹き飛ばすような速度で授業は進んでいく。
鐘が鳴る頃には、私は完全に灰になっていた。
「ソレイユ、生きているかしら?」
顔を上げると、ロザリア様が私の席まで来てくれていた。
「……その、あまりに理解が追いつかなくて」
「まあ、今日の授業は今までの復習も兼ねていたからね」
涼しい顔で言われてしまう。つまり、今の内容は貴族として当然知っているべき範囲ということだ。
軽い絶望が襲いかかってくる。
けれど、ロザリア様の前で情けない顔ばかり見せるわけにはいかない。私は気合を入れ直し、次の授業予定を確認した。
『魔法理論応用』
(基礎さえ受けていないのに……!?)
叫びそうになるのを、私は必死に飲み込んだ。
*
午後、私はとぼとぼと廊下を歩いていた。
エルフェリア王立学園では、午前中は必修授業、午後は選択授業と決められている。
はじめは当然のようにロザリア様と同じ授業を選ぼうとした。だがそんな私にロザリア様はぴしゃりと告げる。
「私の侍女として、本当に必要なものを選びなさい」
その言葉で、私はハッと我に返った。
(そうだ、ロザリア様の隣にいるだけでは駄目だ)
ロズ商会の新商品開発に役立つかもしれない。前世で学んだハーブティーや香草の知識もうまく活かせるかもしれない。
そう思い選んだのは「薬草学」の授業だった。
(ロザリア様に相応しい侍女になるために、頑張らないと)
拳を握りしめ、気合を入れ直す。
ちなみにロザリア様は別の授業を受けており、今日初めての別行動である。
目的の教室に辿り着いた。
教室にはすでに何人かの生徒がいて、穏やかに談笑している。指定された席に着くと、数人の令嬢が近づいてきた。
「ソレイユさん」
「は、はい」
慌てて返事をする。
目の前に立っていたのは、灰色の長い髪を持つ令嬢と、赤毛をきっちり巻いた令嬢だった。記憶の中の情報を照らし合わせ、名前を呼ぶ。
「アネット様、ロレーヌ様。ご機嫌よう」
「まあ、私たちの名前を?」
赤毛の令嬢──ロレーヌが驚いたように声を上げた。私はロザリア様の妄想小説を書くため、学園に通う生徒たちの名前を叩き込んでいた。役に立ってよかったと胸を撫で下ろす。
アネットがやわらかな声で尋ねてくる。
「何かお困りのことはありませんか?」
「侍女のお仕事と学園生活を兼ねていらっしゃるのでしょう? 大変ですわね」
心配するような口調に、私は思わず涙ぐみそうになる。
正直、午前中の授業で心が折れかけていたのだ。優しい言葉をかけてもらえたことが嬉しくて、胸が温かくなる。
「あ、ありがとうございます。実はまだ、分からないことが多くて──」
そう言いかけた私より先に、彼女たちは微笑んだまま続ける。
「でも、ロザリア様のおかげで学園に通えてよかったですわね」
「辺境の子爵家ではまともな教育を受けられなかったでしょうから」
ぴしり、と体が固まった。二人は変わらず優雅な微笑みを浮かべているが、奥にある感情は明らかだった。
彼女らは私を心配などしていない。完全に見下している。
しかし言い返すわけにはいかなかった。
彼女たちはロザリア様を馬鹿にしたわけではない。そして教育の機会が限られていたことも事実だ。
さらにここで私が感情的になれば「ロザリア様の侍女は礼儀も知らない」と言われてしまう。それだけは絶対に避けたかった。
「ありがとうございます。精いっぱい頑張ります」
どうにか笑顔をつくり、そう答えるのがやっとだった。二人は満足そうに微笑むと、自分たちの席へ戻っていった。
午前中の授業で折れかけていた心が、さらに重く沈んでいく。
しかし暗くなっている暇はない。私が情けない成績を残せば、推薦してくれたロザリア様の名誉に傷がつく。
私は深く息を吸ってペンを握りしめた。
(ロザリア様の侍女として、相応しい結果を出してみせる!)
そう改めて決意した。
しかし──私の決意は、ものの見事に打ち砕かれることになる。
「最下位、ソレイユ・フラン」




