21 - 過去の傷
朝、いつもより早起きして書斎から庭へ本を運び出した。絵本や御伽噺を中心に、初めて読書をする人にも読めそうな本をピックアップし、手紙教室で使った大きな机の上に並べていく。
最近はルールーに付きっきりで手紙教室を開けていない。その代わりといってはなんだが、本の貸し出しを行おうと考えたのだ。
数日前、ルールーが想像力と伝達力を育めていないかもしれないという話になったとき、“読書”という単語が脳裏に浮かんだ。絵本や夢のような御伽噺は想像力を掻き立てるだろうし、本を読むことで相手への伝え方――伝達力も身につくのではないかと。
ルールーだけでなく、町の人々にも本の貸し出しをしようと決めたのは思いつきに近い。手紙教室の穴埋めができそうだという下心的な考えもあったし、書斎で埃をかぶっている本たちの有意義な使い方を閃いたという自負もあった。
「随分早いな」
ペルナさんが作る朝食の香ばしい香りがしてきた頃、セルジュが姿を現した。
彼は屋敷の中に入らず、庭で作業している私の方へ近づいてくる。
「おはようございます」
「本を貸し出すのか?」
「はい。最近はルールーさんのお屋敷に通うので忙しくて、手紙教室をあまり開けていないから……」
セルジュは納得したように頷いて、机の上に無造作に広げられていた本を手に取った。そして表紙のサイズや分厚さ、本のジャンルを確認しながら見栄えが良くなるように並べていく。
ふと手に取った一冊の絵本に視線を落とす。表紙に書かれていたタイトルは「エルフの勇者・グエングレン」。ふと、同じエルフの話ならルールーも親近感が湧いて読みやすいのではないかと思った。
「エルフの方って、エルフが題材にされたお話はあまり好きじゃなかったりします?」
問いかけると、セルジュは作業する手を止めずにちらりと視線を一瞬だけ寄こした。続きを促されているように感じて、私は続ける。
「これ、エルフが主役の冒険譚のようなんです。ルールーさんにも何冊か絵本を持っていこうかなと思って……」
「勇者グエングレンの話か」
先ほど一瞬こちらを向いた視線は、絵本ではなく私自身を見ていたように思う。それともあの一瞬で絵本のタイトルまで把握していたのか――どちらにせよ、セルジュは絵本の内容を知っているような口ぶりだった。
「御存じなんですか?」
「この世界だと定番の絵本だ。俺も幼い頃に何度も読み聞かされた」
なるほど、元の世界でいう桃太郎のような存在の絵本らしい。私も一度ぐらい読んでおいた方がいいかもしれない。
そう思い表紙を開き最初の何ページかにさっと目を通したが、とても美しい絵本だった。繊細な絵柄で描かれた勇者グエングレンはどこか耽美な雰囲気を漂わせ、彼に初恋を攫われた幼児は少なくないのでは、なんて邪念を抱いてしまった。
それはさておき、多くの人が知っている定番の絵本ならルールーも既に読んでいる可能性が高い。それどころかあの屋敷を探せば全く同じものがあるかもしれない。
「それじゃあルールーさんも持ってる絵本かな……」
「それも含めて適当に何冊か持っていってやればいいんじゃないか。あれぐらいの年齢なら児童書も読めるだろう」
「そうします」
セルジュの言葉に背を押され、私は勇者グエングレンの絵本含め、何冊かルールー用にピックアップした。
一通り本を並べ終わった頃、屋敷からペルナさんが呼ぶ声がした。どうやら朝食が完成したらしい。
私は額に浮かんだ汗を腕で拭って、汗一つ浮かべていない涼し気な横顔に声をかける。
「朝食、食べて行きますよね?」
「邪魔しても構わないのか?」
いつも食べているのに今更遠慮する素振りを見せるなんて白々しい。しかし口には出さずじとっと睨めば、私の心の内なんてセルジュにはお見通しなのか、彼は肩を竦めて「お邪魔させてもらうよ」と苦笑した。
「今日はペルナさんお手製のパンの日ですよ! 私も少しだけ手伝いました」
「それは楽しみだ」
そうして今日も一日が始まる。
***
「おはようございます、ルールーさん」
「あんたたち朝から元気すぎ……」
屋敷の扉をノックすれば、寝ぼけ眼のルールーが扉の隙間から顔をのぞかせた。
最初は完全に無視されていたのに、通っている内に出迎えてくれるようになったのだ。心を許してくれつつあるようでとても嬉しい。
掃除も順調で――セルジュのまじないに頼りっぱなしだが――今日から二階部分の掃除に取り掛かることになっていた。
「健康な心身は規則正しい生活から、ですよ。ほら、顔を洗ってきてください」
ルールーは意外にも私の言葉に素直に従い、洗面所の方へ歩いていく。その背を見送って、今日のルールーの朝食であるペルナさん特製のパンをセッティングするべく、私は厨房へ向かった。
ルールーの屋敷、もとい彼女の父親・フィフィの屋敷はとても立派で、比べる話でもないが私が今住んでいる屋敷の倍は部屋数がある。私とペルナさんの二人でさえ部屋を持て余しているというのに、ルールー一人ではそれ以上に部屋を持て余していて、九割方空部屋だ。その内の一つ、厨房に隣接している部屋をダイニングに改築――といってもカーペットを引いて机と椅子を持ってきただけだ――したのだ。
お皿を用意して、ルールーが食べられる分だけパンを切る。バターを添えて、紅茶を淹れれば優雅な朝食の完成だ。
ふと二階で大きな物音がした。おそらくセルジュが掃除を始めているのだろう。
「なにそれ」
顔を洗ってきて幾分目が覚めた様子のルールーがやってくる。彼女の目線は屋敷から持ってきた本に注がれていた。
興味を持ってくれたのだろうか。嬉しくて早口で説明する。
「祖父の書斎にあった本です。せっかくだから町の皆さんにも貸し出していて……ルールーさんもお読みになられますか?」
勇者グエングレンの絵本を右手に、左手に別の児童書を持ち、ルールーに示して見せた。彼女の視線が本のタイトルを読むように動き――
「帰って」
「え?」
突然ルールーが俯いた。
思わず聞き返す。今彼女は私に帰るように言った?
一歩近づけば、距離を保つようにルールーもまた一歩後ずさった。
「どうせあんたらも、あたしがエルフっぽくないって言いたいんでしょ!」
「ち、違います! どうしてそんな、急に……」
何がルールーの逆鱗に触れてしまったのかまるで分からず、私は戸惑うばかりだった。もしかして絵本を持ってきたことで、子ども扱いされたと思ったのだろうか。
どう言葉を紡げばルールーの怒りを鎮められるのか分からず、私は絵本を両手に持ったままその場に立ち尽くす。そしてじっと次の言葉を待っていると、激しく燃える赤の瞳が私を貫いた。
「だってそれ、勇者グエングレンの本でしょ!? もううんざり!」
ルールーは髪を振り乱して叫ぶ。きらりと涙が宙に舞った。
「ルールーはどうせグエングレンみたいなエルフにはなれない! エルフの癖に耳も丸いし、精霊の声も聞こえないし、まじないも使えない! グエングレンなんて大っ嫌い!」
――同じだ。
咄嗟にそう思った。
私が日本人らしくないことに苦しんでいたとき、彼女はエルフらしくないことに苦しんでいたのだ。その苦しみを、私が持ってきた絵本で思い出させてしまったらしい。
とにかく誤解を解き、彼女の苦しみに寄り添いたいと慌てて口を開いた。
「ルールー、あなたの気持ちや苦しみはよく分かります。だから落ち着いて……」
「分かるわけないでしょ! どうせあんたは、領主の娘に生まれて、不自由なく育って、一度だって後ろ指さされたことないくせに!」
反射的にそんなことない、と叫びかけて、否定の言葉を飲み込んだ。今真正面からぶつかっては喧嘩になってしまう。だから。
「私、異世界人です!」
「……は?」
予想もしていなかったであろう言葉にルールーは動きを止め、唖然とこちらを見た。
好機だとばかりに私は早口で捲し立てる。
「私の両親はこの世界から駆け落ちして、私はこことは違う世界で生まれました。そこだと私の容姿は浮いていて……日本人らしくないって、何百回と言われました」
ルールーの怒りがどんどん鎮まっていくのを肌で感じていた。
「先日両親を事故で失って、エヴァ・ダリ伯爵が訪ねてきました。彼女に私は別の世界の人間だと教えられ……つい先日のことです。正直今も、私は自分がこの世界の人間だと心から思えていません」
口からこぼれ落ちたのは紛れもない本音だ。この世界で改めて過去を省みて、前へ進めたように思っているけれど、やはり過ごしてきた年数が違う。
この世界で暮らし続けるのか、それとも元の世界に戻るのか。正直まだ決めかねている。しかし現実的に考えて、エヴァ伯爵に援助をお願いしなければこの先一人で生きていくのは難しいだろうし、そうなると領主になるにせよならないにせよ、こちらの世界で暮らすことになるのではないか、とぼんやり考えていた。
しかしどちらの道を選ぶにせよ、私には選択の余地があるのだ。それがどれだけ恵まれていることか――。分かっているからこそ、私はルールーの人生に選択肢を作ってあげたかった。
うぬぼれていると指さされてもいい。何様だと非難されてもいい。望まれていなくても、身勝手な同情だと分かっていても、苦しく険しい立場に身を置いている少女に選べる将来を得て欲しい。そのためにはまず、ルールーに受け入れてもらわなければ――
今このとき、自分は受け入れられるか拒絶されるかの岐路に立っていると感じていた。
「元の世界でも、この世界でも、私は……私も、“っぽくない”人間です」
手に持っていた勇者グエングレンの絵本を、表紙を伏せるように机の上に置く。
「この本はただ、エルフが主役の冒険譚なら読みやすいかなって、そう思って……軽率でした、すみません」
重い沈黙が流れる。自分なりに言葉は尽くしたつもりだった。
果たしてルールーは私を受け入れてくれるのか、それとも甘ったれた異世界人だと拒絶されるのか――
永遠にも感じられる沈黙を破ったのは、ルールーの小さな声だった。
「ルールーは、出来損ないのエルフだから、父さんと一緒に逃げてきたの」
出来損ないのエルフ。
まるで自分自身を傷つけるような表現に眉を潜めつつ、おそらく周りからそう呼ばれ、たくさん傷つけられたのだろうと痛ましく思う。
「耳が尖っていないせいで、母さんはフテイを疑われた。ニンゲンと通じたんじゃないかって。食事に毒を混ぜられて、死にかけた。だから父さんはルールーを連れて逃げた」
幼い少女の口から語られるのは、あまりに壮絶な過去。先ほど軽率に自分とルールーを重ねたことを早くも後悔し始めていた。
どうしてルールーが町のはずれに父親と二人で暮らしていたのか、ようやく理解した。命を懸けた逃亡劇の末、彼らは森のはずれに安住の地を見つけたのだろう。
「ルールーのせいで、ルールーがエルフっぽくないせいで、母さんも父さんも不幸にしちゃった」
語尾が震えた。はっと顔を上げてルールーを見やれば、彼女は眦に溢れんばかりの涙を溜めていた。
私は思わず手を伸ばす。肩に触れ、抱き寄せる。拒絶されることはなかった。
――ルールーが心に追った傷は、私なんかとは比べ物にならない。
けれど彼女は私の手を受け入れてくれた。だから私は華奢な体を力いっぱい抱きしめて、ルールーが自分に向けた言葉を必死に否定する。
「あなたのせいじゃありません。絶対に。だからどうか自分を責めないで」
ぽろり、と涙が一粒零れ落ちた。それを追ってまた一粒、次から次へと涙がこぼれてゆく。
「うぇ、うぇえええ」
「あなたはお父様とお母様に望まれてこの世界に生まれてきたんです。彼らに愛されているから、今ここにいるんです」
ぎゅう、と小さな手が私の服を握った。涙でびしょ濡れになったまあるい頬に自分の頬を摺り寄せて、更に強く抱きしめた。
冷え切っていた小さな体がだんだんとあたたまっていく。泣き続けるルールーにこれ以上なんと声をかけていいのか分からず、無力な私は彼女の名前を何度も呼んだ。ルールー。ルールー。愛しい子。優しい子。あなたが生きていることこそが、ご両親の愛の証なのだと。
自分にしがみつく小さな手が、ただただ愛おしかった。




