あえかなるもの(1)
――俺はごく一般的な家庭に生まれた。
特段裕福というわけではないが、貧乏でもない。恵まれているといえば、恵まれていたんだろう。
両親が共働きだったので、俺は一人でいる時間が多かった。しかし、それでも退屈はしなかった。
なぜなら、俺と同じで両親が共働きだった『桜花』が一緒だったからだ。
桜花の家は俺の家のすぐ隣にあり、よく一緒に遊んでいたので小さいときから仲が良かった。家族ぐるみの付き合いもあり、遠くへ一緒に遊び行くこともあったほどだ。
桜花とはいつも一緒に遊び、そして学び、かなりの時間を共にすることになる。
まだ幼かったこともあって特に意識はしていなかったが、自然と恋仲になり付き合うことも必然といえるほどだった。
俺たちのことは学校でも有名であり、いつも俺たちはクラスの中心にいた。リーダー的存在だったといえるだろう。
周りには必ず人だかりができて、学校は一切退屈せず、それどころかとても楽しい場所だった。それは、桜花も同じ思いだっただろう。
……だが、それはある日を境に大きく変わり果てる。
いつものように一緒に遊んだ、その帰り道――突然、桜花が殺されたのだ。怨みなどではなく、ただの一人の快楽によって桜花は殺されたのだ。
俺はなにもすることができず、目の前で桜花が殺されるのをただ見ていることしかできなかった。……しかも、桜花が死ぬことになったのは、紛れもなく俺の咎だ。
あのとき俺が桜花と逃げていれば、俺たちは助かっていたのかもしれない。だが、あろうことか俺は足がすくみ、一歩も動くことができなかった。
そんなどうしようもない俺を、桜花はその命を投げ打ってかばったのだ。
俺を守るために、自分が刺されることも理解した上で、自らの意思ですぐに行動したのだ。
自分が傷つくことを知っていてなお、それでも恐怖に屈しなかったのだ。
俺は卑怯者だ。
なにもできなかった挙句、一人の少女を犠牲にして生き残った、どうしようもない卑劣な人間だ。
……しかも、俺は自らの意思でこの手を血で染めた。
桜花を殺した男を、こみ上げる憎悪と殺意に任せて、めった刺しにしたのだ。
錯乱しており、無意識の行動ではあったが、それでも自分の意思で行動したことに変わりはない。
自分は、殺人を犯した。
その事実が、俺をさらに苦しめる。
なぜ立派だった桜花が殺されて、守られるだけだった臆病者の俺が生き残ったのか……。
俺は、それが疑問でならなかった。
――それからのことは、よく覚えていない。ただ、とにかく苦痛の日々だったことは覚えている。
俺は桜花が殺されたこと、そして自らの意思で殺人を犯したことに、深く苛まれることになった。
三日三晩声を枯らしながら、それでも血を吐きながら、なおも慟哭の声を上げ続ける。そして、そのまた後には虚無感が訪れ、なにをする気も起きなかった。
意識が希薄になり朦朧として、気がつけばベッドの上で数日が過ぎていた。
食欲は一切なく、食べ物は喉を通らずに、味もまともに感じない。
今まで桜花と一緒にいた時間が、走馬灯のように脳裏を支配する。
なんでもないあの日常が、楽しかった日々が、喧嘩した日のことでさえ……そして、すでに潰えた未来を語り合った日のことが、とても尊く感じられた。
世界が色あせて、追憶に囚われる。この酷い現実から、今すぐにでも覚めたかった。
世間では一連の騒動を『今世紀最悪の事件』と称し、マスメディアでは大々的に取り沙汰された。
ネットには俺が男をめった刺しにする映像が出回り、非難は男だけではなく俺や両親にさえも飛び火した。そして、家には報道機関の取材が殺到したことで、まともに外へ出ることはできなくなる。
そういったこともあって、両親はしばらくの期間仕事はまともにできなかったらしい。
俺も当然学校に行くことなどできず、自分の部屋に引きこもった。
『PTSD』――心的外傷後ストレス障害。
これは、俺がかかっていると診断された病気の名前だ。
強烈なショックを経験することによって、どれだけ時間がたってもそのことを思い出してしまう病気らしい。
当然、そんなつらい過去を思い出してしまえば、強い恐怖に囚われることは必然である。それは、俺も例外ではなかった。
刃物を見ればトラウマに苛まれ、赤色の物を見れば吐き気が込み上げてくる。
今まで住んでいた家にいることでさえ、トラウマがフラッシュバックする要因になっていたので、引っ越しを余儀なくされた。
意識しないようにしていても逆にそれが意識する要因となり、何度も繰り返してそれは止まる気配がなかった。
自信がなくなり、自分の存在が無意味に感じられる。自分が自分であるという当たり前の感覚が、そして自分がどんな人間だったのかも一時的にわからなくなった。
自分を遠くから眺めているような感覚がして、まるで別人のように感じられる。
家の外から聞こえてくるいわれのない非難や罵倒、匿名の人物から送られてくる無言電話や脅迫じみた手紙などによって、俺は人間不信になった。
両親ですら信用することができず、どれだけ手を差し伸べられても拒絶することしかできない。
耳を塞ぎ、眼を覆い隠し、心を閉ざす。
そうしてこの身に訪れたのは、ただひたすらの孤独と、耳障りに感じるほどの静寂だった。
――こんなふざけた世界、壊れてしまえばいい。
なぜ自分がこれほど苦しまなければならないのか。なぜ自分が加害者のように扱われなければならないのか。
俺は理解できずに、そう願った。




