抗えぬ悪夢
――チェイスに帰って来てから二日後のことだった。
深夜、俺はベッドで眠りについていると、突然ある違和感を覚えた。
それは――悪夢。
幾度となく俺を苦しめてきた、今の俺を構成するピースの一つでもあった。あんなことがなければ、今の俺はここにいない。
そう言えるほど大きな出来事であり、この先も決して忘れることはできないのだろう。
抗おうと必死になって抵抗するが、ソレから逃れることはできなかった。
深くフカク、闇の淵へと落ちてゆく――。
―― ―― ―― ―― ――
まぶしく日差しが降り注ぎ、いかにも夏真っ盛りという様子だった。午後の六時頃ではあったが、それでもなお日暮れは遠くに感じられる。
スーツを着た者が帰路に就く姿もあり、なにも変わらないいつも通りの光景であった。
「奏多、今日も楽しかったね!」
「うん。今日は負けたけど、明日は絶対に勝ってやるからな!」
そんな中、二人の少年少女が仲良く手をつなぎながら歩いていた。楽しいことがあったようで、二人は上機嫌である。
――そう、その内の一人は九歳頃の『ソータ』であった。
黒一色の髪、やや茶色がかった瞳、そしてごく自然な笑顔を浮かべている。
奏多が手をつないでいるのは、幼馴染であり恋人の『染井 桜花』という少女だ。
黒髪ロングを揺らし、幼くてもわかる整った顔立ちをしている。身長は横に並ぶ奏多よりも少し低い。
二人は最近はまっている、『たがいに簡単なクイズを出し合う』という遊びを近所にある図書館でしてきた帰りであった。そのため、二人とも手にはなにも持っていない。
「――きゃあああああぁっ!?」
しかし、そんな大通りから突然女の悲鳴が上がる。それを聞いた者たちは、なにかがあったんだろうと、声の聞こえてきた方向を確認した。
「えっ? な、なに……?」
「お、おうか! あれっ!」
そこにはダガーナイフを握りしめた男が、目を見開き不気味な笑みを浮かべながら、逃げ惑う人々を追いかけていた。
男は誰か特定の人物を狙っているわけではなく、無差別に追いかけているようである。そして男は必死で逃げる人々を見て、心底楽しそうな笑みを浮かべていた。
立ち止まる奏多たちを、逃げる人々は通り過ぎていく。
二人も同じように逃げなければならないことはわかっていたのだろう。だがしかし、二人は足がすくんで思うように動くことはできないようだった。
そんな二人が目に留まったようで、男は嬉々としてダガーナイフを奏多に振り下ろす。
「――っ!」
結局逃げることはできず、奏多はこれから訪れるであろう未来に恐怖して、目をつむった。
――だがしかし、現実は奏多の予想したとおりにはならなった。それは奏多にとって、より不幸な結末であったのかもしれない。
予想していた激痛ではなく、奏多が代わりに感じたのは前方からの衝撃だった。
奏多は後ろに倒れこむと、なにが起こったのかを確かめるべく目を開く。すると、そこには驚愕の光景が広がっていた。
「ひっ……!?」
奏多の上には桜花が覆いかぶさっており、そんな桜花の背中にはダガーナイフが深く突き刺さっていたのだ。
桜花は咄嗟に抱きつき押し倒すように奏多をかばったのだが、その影響によるものかざっくりと背中を斬り裂かれていた。その大きな傷から流れ出た血が、二人を紅く濡らしていく……。
「……は、はははははっ!! ついに、ついにやってやったぞっ!!」
男は狂気的な笑い声を上げ、恍惚とした表情を浮かべていた。そこに、たった今少女を刃物で刺したのだという、罪悪感は微塵も存在していなかった。
「――そうた……おね、がい……生き、て……っ!」
桜花は歯を食いしばって無理やり笑みを浮かべると、奏多へと語りかける。苦しそうではあったが、桜花は安堵の様子を見せていた。
奏多は困惑によりなにもできず、ただただ桜花を見つめることしかできない。
しかしついに限界を迎えたようで、桜花は糸が切れたように倒れ込み、動かなくなった。再び動き出す気配はない。
奏多は理解できなかった。突然起きた事に、頭がついていけなかったのだ。しかし、それでもある一つのことだけは理解していた。
――桜花が笑みを浮かべることは、もう二度とないのだろう、と。
「な、なんで……っ?」
「ははっ! それはお前が弱いからだよ!!」
奏多のうわ言のようなつぶやきに、男が答える。
――桜花が死んだのは、自分が弱かったから。自分が弱かったから、桜花は死んだ。
言外にそう言われた奏多は、またもや理解ができなかった。しかし、次第に現状に対して理解が及んでくると、奏多の胸の内には耐えがたい思いが込み上げてきた。
それは桜花を殺した男に対する『殺意』であり、なにもできずに守られるだけだった自分自身に対する『怒り』、そして『失望』。
「……っ! うわああああああああああぁぁぁっ!!」
奏多は桜花の背中に突き刺さっているダガーナイフを引き抜くと、絶叫を上げながら男に斬りかかった。
錯乱し我を忘れているようで、涙を流してはいたがその顔は凶悪なまでに歪んでいる。
まさか自分が攻撃されるとは思いもよらなかったようで、そんな男の腹部を奏多の振るったダガーナイフが斬り裂いた。
男はたまらず地面に倒れこむ。しかし、そこへ奏多は馬乗りになると、何度も何度もダガーナイフを男に突き刺した。
「がああああああああぁっ!? やめろぉっ!! 死ぬ、死ぬっ!! ぐああああああああぁっ!?」
なんとか男も腕を振り回し、顔を殴ることによって抵抗するが、奏多が手を止めることはない。
顔を、胸を、腕を――絶え間なくダガーナイフを滅茶苦茶に振り回し、男をめった刺しにする。
しばらく男は抵抗していたが、それもできないほどに弱り果て……そして、力尽きた。しかし、奏多が手を止めることはない。
抵抗しなくなったことで、男が死んだことは奏多も理解しているのだろう。だが、それでも憎悪の念は絶えず、奏多は一心不乱に男をダガーナイフで刺し続けるのだった。
―― ―― ―― ―― ――
通報で駆けつけた一人の警察官が目にしたのは、あまりにも凄惨な光景だった。
一人の少年が、すでに事切れている男にダガーナイフを振り下ろし続けており、そのそばには少女の死体も転がっていた。
少年――奏多は息を切らしていたが、それでもなおダガーナイフを振り下ろすことをやめない。
あまりの光景に警察官の思考が止まる。しかしすぐに正気へ戻ると、警察官は奏多の右腕をつかんだ。
「君っ!! 今すぐそれをやめるんだっ!!」
奏多は腕をつかまれたことで、持っていたダガーナイフを手放した。するとダガーナイフは地面へと落下し、カランッ……という無機質な音を周囲に響かせる。
「……え? え? ――ひっ!?」
ソータは我にかえるが、現状を理解することはできなかった。しかし、自分がまたがっているものを見たことで、小さく悲鳴を上げる。
そこにあったのは、真っ赤に染まった塊。
もはや原型はとどめておらず、あまりにも酷いありさまである。
ソータはその場から飛びのく。すると、自分の手が視界に入った。
そこにはどす黒い血がべったりとこびりついており、それはどれだけ洗っても取れないほどだった。
自分がしたことを、ソータは自覚する。ほぼ無意識に行われたことだったが、それでも自分自身の意思でしたことには変わりないのだ。
「……違う、俺は……こんな……。――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!! うわああああああああああぁぁぁっ!?」
ソータはたまらず恐慌し、悲鳴を上げるのだった――。




