~十月九日~ 6
さて帰ろうかとキックスクーターに足をかけ、振り返ると少年は俯いていた。その姿は自分よりも幼く見える。先ほどの寂しそうな横顔を思い出して、胸がぎゅっと苦しくなった。そういえば少年の年齢どころか名前すら知らないことに、智夜は今さら気が付いた。
「ね、送っていこうか?」
少年は俯いたままふるふると首を横に振った。智夜はそんな様子の少年を一人にするわけにもいかないと、その場から動けない。もしかしたら泣いているのかもしれないなんて不意に思った。顔が見えないから、声をかけづらくて、時間だけが静かに過ぎていく。実際は思っているよりも時間は経っていないのだろうけれど。
ふと上げられた少年の顔は意地悪そうに歪んでいた。何か企んでいるのは明白。嫌な予感がするな、なんてため息を吐いてその場を去ろうと顔を前に向ける。
「あんた、組織のしてること知ってるわけ?」
「さあ、別にどうでもいいけど」
嫌そうに呟く智夜には構わず、少年は言葉を続ける。
「『プロローグ』って組織はさ、あんたの思ってるほど、お綺麗な組織じゃないぜ? 犯罪者ばっかりの掃き溜めさ」
吐き出される言葉は悪意に満ちていて、智夜を傷つけようとしている。けれど、その言葉に傷ついているのは彼の方だった。鋭い刃で何度も何度も傷つけるような顔をして、痛がっているくせに少年は言葉を止めない。何度も何度も自分を傷つけて、何度も何度も心から血を噴き出す。智夜は知らされる事実より、少年のことが気になった。どうしてそんなに苦しそうなのだろう。何をそんなに嘆いているのだろう。
(辛いなら、止めればいいのに)
キックスクーターから降りて再び今度は身体ごと少年に向き直る。少年は迷子の子どもみたいな、そんな顔をしていた。
「オレは殺し屋であんたは運び屋。他にも暗殺とか壊すのを専門にしてる奴だっている。人から盗んで何も感じない奴や、情報で人をまるでゲームみたいに操る奴だっている。そんな組織だ。昔から何も変わってない」
それが、あの子のいる世界。この少年が生きてきた世界。これから、智夜が生きていく世界。智夜はそれを聞きながら、彼の言いたいことを考える。「プロローグ」がそんな組織だとして、彼はどうしたいのだろう。中からの改革を考えている? 彼の言う「お綺麗な組織」にするために? そんなまさか。夜の街の実態を知った今となっては、常識だとかモラルだとかそんなのはどうでもいい気がした。彼が言いたいのは、そんなことではないのだろう。横たわった男たちの姿を思い出す。生きるか死ぬかの瀬戸際で、他人のことを考える余裕はないような気がした。どうせ最後に罰を受けるのは自分なのだ。
「あんたは何のためにこの組織に居るんだ?」
彼はこれが聞きたかったのかと、納得すると同時に少し驚いた。他人を気にかけるような人間ではないと短い時間の中で無意識に思っていたのだ。けれど振り返ってみれば、智夜にとっては訳が分からないように感じていた言葉遊びも、もしかしたら彼なりの気遣いだったのかもしれない。少年の瞳はゆらゆらと揺れて、不安そうに智夜の答えを待っている。あの子のため、とは違う気がして、智夜は考えた。
「生きるため、かな。『プロローグ』なんて、組織なんて、別にどうでもいい。生きていけるなら、他人なんて関係ない。善悪なんて、考えない」
口から出た答えに驚いたのは智夜だった。無意識な答えだったからこそ、自分ですら知らなかった本音なのだろう。甘い、のかもしれない。運び屋として生きる自分には、人の生死があまり関わらないから。自分には関係ない人間の命が軽く見えるから。だからそんなことが言えるのかもしれない。けれど紛れも無く〝今〟の智夜の本心だった。
「生きてていいんだって思うよ。わたしも、きみも。生きたいって思うなら」
願うように俯いて目を閉じる。どくり、と心臓の音が聞こえた。生きたいと叫んでいる。
智夜はあの時撃てなかった。彼が止めたからではなく、きっと智夜は撃てなかった。もし同じことがあったとき、どうするのだろう。引き金を、躊躇うことなく引けるだろうか。他人の命が軽く見える世界なのに、命を奪うのは怖い。けれど生きていたいのだ。自分の命を安売りできるほど、まだ生きてなくて、死ぬのは怖い。心の底から願うなら、生きなければ。
「歓迎するぜ、智夜。あんたは立派な夜の住人だ」
そんな智夜の心を見抜いたように少年は言った。これからよろしく、とそう呟いた少年は、嬉しそうに、けれど泣きそうに笑っていた。寂しそうな表情は消えてはいないけれど、自分を傷つけるような、そんな雰囲気はもうない。その表情が、よく知る誰かと重なった。彼は智夜に右手を差し出して握手を求めてくる。赤い髪が風にさらわれて、なぜか金色に見えた。
なんでもない日常の、なんでもない始まり。




