~十月十日~ 9
逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて逃げて、辿り着いたのは台所。息を殺してじっと隠れる場所を探す。目に入ったのは、肉切り包丁。
(殺さなきゃ、殺される)
胸を支配したのは絶望だった。重たいそれを両手で持ち上げて、戸棚の影に身を隠す。外で生きてきた流音にとって、隠れるのは日常茶飯事だった。がちゃりと、ノブが回る音。チチオヤは流音に恐怖を与えるためにゆっくりと台所に入ってきた。
チチオヤと目が合った瞬間、思い切りそれを下へ落とす。ぐしゃっと音がして、まず足が切れた。痛みから蹲って叫び声をあげる。距離を誤ったから、足の指が何本か無くなっただけなのに酷く大げさだ。こんなにも弱いのかと、流音は覚めた目で見た。
「なあ、おい。冗談だろ?」
いつもと違って流音を見上げてくるそれ。流音はにっこり笑った。チチオヤは安心したのかこちらに引きつった笑みを返す。流音はもう一度肉切り包丁を振り上げた。ぱっくりと頭が割れる。どろりと脳髄が垂れる。目に入る赫がとてもきれいだ。最期まで恐怖に引きつった顔でこちらを見ていた。チチオヤはすでに死んでいたけれど、飛び散る赫が見たくて、何度も何度も振り下ろす。腕、足、胴体、内臓。びちゃびちゃと飛び散る赫は本当に綺麗で、わざと被ってみたりした。暖かくて、酷く安心する。抱きついたチチオヤも、暖かかった。
様子がおかしいと、覗きに来たハハオヤ。こちらを見た瞬間に悲鳴を上げて後ろに下がった。
「化け物!」
悲痛な叫び声が流音に叩きつけられる。今まで「化け物」と呼ばれたことは無かったから、不思議な気分でハハオヤを見た。逃げようと走り出したのを追いかけて、思わず手にしていた物を振り下ろした。ざっくりと太ももが切れて、転んでしまったハハオヤ。これでもう逃げられない。流音は嬉しくなって笑った。
「嘘、でしょ?」
ハハオヤは目に涙を溜めながらこちらを見ていた。その言葉には答えないで、近づく。怖いのか、はくはくと口で息を吸っているのが見えた。
「ねぇ、」
ハハオヤの顔には恐怖が張り付いていて、とても醜い。女としての顔は嫌いだけれど、この顔の方がもっと嫌いだった。自分に似ているから。
「笑ってよ」
どうせなら笑えばいい。いやらしい笑顔でもなんでも、その方が数倍マシに見える。ハハオヤは許してもらおうと、必死で笑顔を作ろうとした。それが無性に気に入らなくて、首を斬りつける。流音の力では胴体と頭を切り離すことはできなかった。彼女のことは大嫌いだったけれど、噴き出す赫はチチオヤのそれよりきれいな気がした。これだけなら愛せる、なんて、初めて彼女の頬にキスを送った。
恍惚とそれを繰り返していれば、玄関のチャイムを鳴らす音。しばらく放っておけば、それは扉をノックする音に変わった。それも無視していれば、勝手に扉を開く音が聞こえた。煩わしく思いながらも肉切り包丁を握りなおす。入ってきたのは、今より若い南音だった。当時詐欺師として両親に近付いていた南音との出会いなんてそんなものだ。
「あー……最悪」
南音は血の海の真ん中に立って肉切り包丁を持つ流音を見て正確に状況を判断したのか、視線を合わせるように屈んだ。流音は驚いて一歩下がる。大人は信用できない。ちらりとチチオヤを見た。男は怖い生き物だ。
「ね、お父さんとお母さんは?」
南音はにこにことこちらに笑顔を向けてきた。白々しいと思いながらも、落ちている物体を二つ指差す。南音はやっぱりと言いながら頷いた。何がしたいのか理解できない。
「お兄さんはね、それにお金をあげる約束をしてたんだ」
それ、といいながら指差したのはチチオヤ。流音が頷いたのを見て、南音は続ける。
「もちろんただじゃないよ。代わりにね、キミをくれるんだって」
「……え?」
「わかんなかった? キミ、売られたんだよ」
突然すぎて理解できなかった。けれどどこかでやっぱり、と思う自分もいた。驚くほどに、何も感じない。どうせ目の前の男も、流音を殴るのだろうなんて冷めた心で思っていた。
「で?」
「でって?」
「オレはどうしたらいいの?」
チチオヤはもういないけれど、その約束がどういうことなのかは流音にだって分かる。
「可愛いなぁ」
南音はぽつりと呟いた。にっこり笑って流音の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜる。少し距離があったはずなのに、いつの間にか詰められていて、流音は本当に驚いた。
「最初はね、どっかに売っちゃおうと思ってたんだ」
「そう」
「でもね、最近じゃ一人で仕事するのが辛くなってきたから、僕のものにして相棒にしようかとも思ってたんだ」
「……は?」
「元々子どもって好きなんだよね。ねえ、僕の名前は南音って言うんだ。キミの名前は?」
南音は最高の笑顔をこちらに向けている。きっと半分は嘘なんだ。そう思った。確信は無いけれど。後で聞いた話だと、本当に嘘だったらしい。チチオヤに金を譲るというくだりから全て。そんなことには気づけないで、流音は躊躇って、下を向いた。
「……名前?」
「ん?」
「名前って、なに?」
人間にそんなものが必要なのだろうか。ああ、でも目の前のこの男は自分のことを南音と言っていた。今まで必要が無かったから、考えたことも無かった。
「……そっか。それは困ったね」
南音は困ったように笑って、流音の手を引いた。とりあえず着替えようかと台所を後にする。扉を閉めてしまえば、もうオヤは見えなくなった。彼は子ども好きと言っていた。けれどそれも嘘かも知れない。あれよ、あれよという間に口八丁手八丁で外に出る。流音は着替え終わってからも、肉切り包丁を手放さなかったから、それを手にしたまま反対の腕を南音にひかれていた。




