~十月五日~ 2
「ごめん」
先に口を開いたのは少年だった。申し訳なさで一杯というような顔をしているから香丸は首を横に振った。怪我をした訳ではないから、とくに気にするようなことでもない。それよりも少年の態度の方が気になった。今日は学校で彼に会っていないから、いつから様子がおかしかったのか見当もつかない。
「どうかしましたか?」
香丸の質問に少年は俯いて緩く首を振る。ちらりと見えたのは、懸命に何かを堪えているような表情だった。けれど再び顔を上げればいつもの彼。いつもと同じように明るい笑顔で、こちらを見ている。それなのに青い瞳だけはゆらゆらと何かに怯えていて、もどかしい気持ちになった。香丸が再び尋ねる前に少年が口を開く。
「だいじょーぶ。んじゃ、行こっか。依頼内容は知ってるか?」
「はい。この先の大きな屋敷の主人の殺害ですよね?」
知られたくないことなのだろうか。あえてそれを追求せずに香丸は先を促した。少年はあからさまにほっとした表情で小さなメモを取り出す。手渡されたそれには住所が書いてあり、そこへ向かえということだろう。
「そんなに難しくはないだろうってさ」
「そうですか。珍しいですね」
「あ、でもあんまり騒ぎにならないようにだって」
つまり暗殺ということだろう。ターゲットやその周辺に悟られないように任務を遂行しなければならない。厄介なことに屋敷の見取り図も用意されていないのだから、直接探し出す必要がある。本来なら一週間ほどかけてこなしたい任務だったが、今夜中に、ということだった。
(どこが難しくはないですか)
いつも無理難題を押し付けてくる南音。彼には愉快犯のような節があった。目の前の少年も彼ほどではないけれど、さすが彼に直接育てられただけあって、似ているところがたくさんあった。成長するにつれて年々酷くなっていくお願いという名の我儘に振り回されるのはいつも香丸。香丸はため息を吐いた。すでに慣れきったこととはいえ、なぜこうも迷惑をかけられるのか。一番困るのは、自分がそれを嫌がっていないことだった。
静かな公園を抜け、住宅街へと差し掛かった。ここを抜ければ依頼人の家だ。並んで歩いていると少年がふと笑いだした。
「二人で歩いてるとさ、昔のこととか思い出すよな」
「昔、ですか?」
「いっちばん初めのとき」
「ああ、エピローグの」
「そうそう入ったばっかりのときとかさ、酷かったよなー」
二人がエピローグに正式に入ったのは五歳のときだ。しかし四歳の時には既にエピローグのメンバーたちから可愛がられていた。前の組織はプロローグと違ってきちんとした隠れ家が存在したから、メンバーの足は自然とそこに向かっていた。自分たちの家がある者もいたが、隠れ家で寝泊りする者ばかりだった。集合場所はいつもそこ。正式なメンバーの数は分からないけれど、いつもみんなで騒いでいた。
同年代の子どもは二人しかいなくて当時から仲が良かった。香丸の両親の仕事についていったり、他のメンバーの仕事についていったり、一緒に訓練を受けたり、普通の子どものように遊んだりもしていた。途中から入ってきた少女も一緒になって泥だらけになって遊んだのは今となってもいい思い出である。今では嘘のように、当時の彼女は笑わなかった。
「何回も死にそうになってさ」
「そうですね。もっと安全な仕事はいくらでもあったでしょうに」
「だよな」
大人たちは三人が可愛くて仕方がなかったから、彼らが自分たちだけでも生きていけるように、なんて嘯いて危険な仕事でも構わず連れまわす。それこそ昼夜問わずの生活だったから、命がいくらあっても足りない気がしていた。それぞれに保護者がいたから、常に三人で行動していたわけではないけれど、それでもそれぞれが死線を越えるような経験をしてきた。身体を動かせなくなるほどの大きな怪我を誰もしたことがないのは、やはり周りの大人たちに守られていたからなのだろう。
「生きてるのが奇跡みたいだ」
ぽつりと落とされた少年の言葉に、香丸は返事をしなかった。
無意識にずっと続くと信じていたあの日々。今はもう取り戻すことは出来ないけれど、同じくらい大切な今がある。過去に縛られることはない。
そんな昔話をしているうちに、目的の建物へと到着した。外から覗いてみれば、大きな門の内側にはガードマンが二人立っている。裏に回ってみても、同じく二人のガードマンが立っていた。ガードマンは二人とも体格が良く、手には警棒とトランシーバーが握られている。周囲に目を光らせているため、簡単に通り抜けるのは難しそうだ。騒ぎを起こすのが目的ならそのまま侵入しても構わないけれど、今回の任務ではそうはいかない。




