十と一 怖ろしや阿修羅
小吉の胸で泣くだけ泣いて気持ちが収まったりんに親方は言った。
「竜胆丸。今日の所は小吉殿と帰るがよい」
涙を拭いながらりんは小吉の懐から親方を恐る恐る見た。
「お前はここで働くと言ったな。まさか愛しい男が現れたからと言ってそれを翻さぬよな!」
回りの若衆達はしんとした。小吉は情け無さそうな顔でりんを見る。
「は・・・い・・・言いました」
「りん!」
この時代の人々はぞんざいに言葉を発しない。言った事は言質として守らねばならなかった。
「え・・・越後!待ってくれ!これには・・・」
「駄目じゃ!小吉さん!・・・でも親方は客は取らせないと言ってくれたから・・・堪忍して!」
小吉は目を血張らせて越後に叫んだ。りんを大切そうに懐に包んで。
「越後!お前も約定を守れ!」
越後はのほほんとして、煙草を吹かす。
「分かっておるわいな」
りんに鼻を削がせようとした若衆が懇願する様に言った。
「お頭!許してあげちゃ・・・」
越後はぎろと彼を見て強く言った。
「じゃ、お前に好きな男が出来たからと言って許さなくちゃならないのか!それならばこんな家を作る必要はなかった!ここを出てどんな所に行こうが掟が有る事は分かってるな!」
若衆はしょんぼりと項垂れた。
りんと小吉は間近で見つめ合っていた。お互いの心を確かめ合う様に。全ては賽子が転がる様に決まって行く。また振り直すことは出来ないことは、戦場で生死を分けあってきた彼らには分かっていた。それが今の世なのだ。
人は一人では生きられない。町人でも非人と呼ばれる人達でも侍でも、皆、自衛組織の一員として生きていた。家と呼ばれ、邑と呼ばれ、講と呼ばれ、掟と呼ばれる結束で生活の安全を維持しているのだ。
一旦そこから外れれば『無縁』となる。自由と引き替えに一切の身の安全は保証されない。どこかの組織に捕らえられ、奴隷となる運命が待っているのだ。この時代は百姓でさえ、奴隷を養っていた。
慶次郎の主従から離れても、若衆茶屋の『家』に迎えられるということは特に不幸ではないのだ。刺客の闇夜の中で生きていくことよりはどれだけましであろう。
越後にしてもこの二人を引き離すのが本心ではなかった。しかし掟を守る事は最優先であったのだ。
この騒ぎを茶屋の二階で泊まっていた客も眺めていた。阿修羅が泣いたのを若衆達と一緒に喝采していた。しかしその客の中で一人ぎりぎらとした目でりんを見ていた男がいた。
その男の右手は手首から失われていた。
りんと小吉が寄り添いながら立ち上がろうとする時、その男は右腰に大刀を差し音をさせずに階段を降りてきた。右腕で大刀を押さえて左手で鯉口を密かに切っていた。
親方はりんに言った。
「落ち着いたらここへ戻って来るのや。悪い様にはせん」
りんは小吉と両手を合わせて頷いた。その顔は泣いた後の菩薩の様な諦観があった。小吉は愛おしそうにそれを眺めた。
「!」
りんの目がふと遠くを見た。りんの左手が小吉の腹を強く突いた!
「ぐっ!り・・・」
小吉は痛みで体が痙攣し身を丸くして尻餅を突いた。りんの豹変に愕然としていた。
「こわっぱ!死ね!」
若衆達の後ろに静かに回っていた右手首のない男が左手で刀をすらと抜き、左半身で大上段に振りかぶってりんに向かって飛んでいた!
土間にいたりんの右肩を目掛けて男は大刀を振り下ろす。越後もはっと気付いたが成り行きを見ているしかなかった。
男の剣は左半身のまま上段から右下へ斬り下げられた。新陰流の九箇の太刀の一つ『必勝』と名付けられた使太刀の太刀筋である。もともと新陰流の技ではなく、他流派のものであったと言われる。
りんは太刀筋に向かい、太刀が当たる寸前に右半身となり斬風を避けた。りんの長い髪の束が寸断された。
避けた瞬間りんの左手が動いた。左から右へ風を薙いだ様であった。だが異変に驚いた皆がその手に見たものは、小吉の脇差しであった。
その男はすぐ左にいるりんを睨んだ。そしてその目は徐々に上を向き白目を剥いた。
そして居並ぶものが全て震撼することが起こった。
その男の首に横に血の筋が入り、ゆっくりとずれて落ちた。
りんは血飛沫をまともに受けた。
「り、りん!」
小吉は腹を押さえながらりんの手から脇差しを取り、小袖の袂でりんの顔を拭いてやった。りんの顔は優しさを取り戻し、泣きそうな表情をしていた。
「誰じゃ・・・こやつは・・・?」
「前に、柳生の庄で出会った。盗賊の頭じゃった。その時、この人の弟を俺は殺したんじゃ・・・」
小吉はりんをまた押し懐いた。
越後が叫んだ。
「とんでもない!お前などもう要らぬ!ここで殺生をした者など置いておけるか!」
越後は厄介払いをするようにりん達を追い払う真似をした。
小吉はりんを背中で隠す様にして言った。
「じゃ・・・連れて帰ってもう戻さぬぞ!」
越後が応酬する。
「ここの掟をりんは破った!もう戻るな!」
小吉はりんの肩を抱いて伏見に向かった。色若衆どもが土手に出て、五条の橋を渡る彼らを見送っていた。まるで血濡れた牛若丸を弁慶が守り連れる様に見えた。宮川筋の方から童歌が追った。
長黒髪は阿修羅じゃぞ
泣いた途端に首を切る
菅公(菅原道真)よりも怖ろしや
前田慶次しか囲えぬわ
了
物語中に出てきましたが、新陰流の「九箇の太刀」という九つの組太刀があります。その最初の組太刀の使太刀(技を掛ける側)の刀の持ち方は、左手が前になり、右利きの人が普通に持つのと逆になります。右手首のない男は左手を前に持ち、この構えと太刀筋でりんに斬りかかったのです。記録にはこの構えは「結城のシンサイ」という武士が伝えたとあり、多分、彼は新当流(神道流から塚原卜伝が工夫した流派)の使い手であったと思われます。