第4章 登録簿(後編)
「で」と隊長は言った。「灰色」
裏口の床の二人が、顔を上げた。
「館にいたのは、どっちだ」
首に白い毛のあるほうが、ゆっくり立ち上がった。
「僕だ」と、首に白い毛のある灰色は言った。「依頼で、館の裏庭に樽を運んだ。六つの鐘の前から。樽は五つ」
「石を盗ったか」
「盗っていない」
酒場が少しざわついた。嘘をつけない者が、盗っていないと言った。だが隊長は、眉ひとつ動かさなかった。
「そうか」とだけ隊長は言った。それを帳面に書けとは、トマスに言わなかった。
「屋根の上に、人がいた」と首に白い毛のある灰色は続けた。訊かれていないことを言うのは、この灰色にしては珍しかった。「六つの鐘が鳴っているとき。猫より大きい影が、屋根の上を滑って、天窓のあたりで消えた」
執事が、はっと顔を上げた。
「天窓……」
「屋根の影ねえ」バルタザールが階段から言った。「灰色が自分で屋根に登ったんじゃないのか。自分の影を見たって話だろう」
「僕は、裏庭で樽を運んでいた」と灰色は言った。それだけ言った。
「そのあとは」と俺は訊いた。隊長が、俺に訊かせるように黙っていた。
「六つ半に、ここへ戻った。表の長椅子の前を走った。七つには、中庭の井戸で腕を洗っていた。樽の輪で擦りむいた」
灰色は左腕を少し持ち上げた。毛の間に、赤い擦り傷が一本走っていた。
俺は黒板の、居場所の欄に書いた。首に白い毛。六つ、館の裏庭。六つ半、戻る。七つ、中庭の井戸。条件、なし。嘘をつかない。
隊長は、その灰色を長いこと見ていた。それから、ヘルマンに訊いた。
「この灰色か。館にいたのは」
「……申し訳ございません。分かりかねます」
「本人がいたと言っている」
「では、その方なのでしょう」
「だろうな」隊長は卓を指で叩いた。「では決まりだ。館にいた灰色は、この灰色だ。石が夜明けまでに出なければ、灰壁の掟どおり、この灰色は開門とともに城の外へ出る」
首に白い毛のある灰色は、何も言わずに座った。耳の欠けた灰色が、その肩に手を置いた。手は動かなかった。置いたまま、じっとしていた。
ルルが、カウンターの端で瓶の蓋に指をかけていた。かけただけで、開けなかった。
隊長がそちらを見た。
「給仕。お前は夕方、ずっと店番だったそうだな。灰色は、店に来たか」
ルルは瓶の蓋から指を離して、にっこり笑った。
「あら、隊長さん。灰色なら毎晩来るわよ? 裏口に、スープを飲みに」
「今夜は」
「今夜も、よ」ルルは首をかしげた。白い耳が片方、隊長のほうへ傾いた。「……それより、麦酒、持ってきましょうか? 隊員さんたち、坂を下りてきて、喉が渇いてるでしょ。酒蔵に新しい樽があるの」
隊長は、ルルの顔をしばらく見ていた。何かを量る目だった。量って、量りきれずに、やめた目だった。
「持ってこい」と隊長は言った。「勘定は組合持ちだ。樽は重いだろう。灰色を一匹連れていけ。トマス、ついていけ」
ルルは裏口の床へ行って、耳の欠けた灰色の袖を引いた。トマスが槍を抱えて、その後ろについていった。三人は酒場の奥の、酒蔵へ下りる階段へ消えた。
*
「ニコ」と俺は言った。
窓際の卓で、ニコが顔を上げた。
「手袋を、見せてもらえますか」
「は?」
「隊長の前で。いいですよね、隊長」
隊長は顎をしゃくった。隊員が一人、ニコの横に立った。ニコは舌打ちして、薄い革の手袋を片方外し、卓の上に放った。
俺はそれを取り上げずに、顔を近づけた。
菫の匂いがした。
かすかだったが、確かにした。革の匂いと、蒸留酒の匂いと、それから、花を煮詰めたような甘い匂い。ニコは今夜、酒に口をつけていない。蒸留酒の匂いは、グラスを回していたときに指についたのだろう。菫は違う。
「ヘルマンさん」と俺は言った。「奥様の香水は」
執事は、手袋から目を離さずに言った。
「菫でございます。奥様は菫しかお使いになりません。石の小袋にも、奥様がいつも香水をしみこませておいででした」
酒場が、今夜いちばん静かになった。
「花屋の前を通ったんだよ」ニコが言った。声が少し高くなっていた。「夕方、下町の花屋の前を。菫なんて、どこにでも咲いてらあ」
「晩秋に」と隊長が言った。
ニコは黙った。
「アガタさん」と俺は言った。「十の鐘のころ、組合長に遮られた話の続きを。六つ半に裏の路地ですれ違った男は、どんな男でした」
アガタは手袋の指を組んだ。遮られたところから、そのまま続けるような声だった。
「小柄で、足音のしない方でした。すれ違ったとき、菫の香りがしました。男の方にしては、珍しい香りだと思いました」アガタは言った。「顔は、見ておりません。ですから、どなたかは、申し上げられません」
嘘をつかない者は、見ていないものを見たとは言わない。アガタの言葉は、そこで止まった。止まったところから先は、黒板の上で、俺が並べるしかない。
「ニコ。黒猫の尾は、七つの鐘まで戸を開けませんね」
「……だから何だよ」
「六つから八つまで黒猫の尾で札をやっていた、とあなたは言った。六つから七つまで、あなたはどこにいたんです」
ニコは卓の上の手袋を掴んで、はめ直した。指が一本、うまく入らなかった。
「ニコ」と隊長が言った。「お前は今夜、素面だな」
「……ああ」
「組合長に、何か言えと言われたか」
ニコの目が、一瞬だけ階段の三段目へ走った。すぐに戻った。
「言われてねえよ」
「では、金は。誰かから金を受け取ったか」
「金なんか受け取っちゃいない」
ニコはそう言い切った。言い切って、自分の言葉の重さに気づいたみたいに、唇を舐めた。
俺は黒板のニコの欄を見た。条件、なし、と書いてある横に、小さな点を一つ打ってある。
素面の盗賊が、長の命もなしに、組合の建物の中で嘘をつくことはできない。ニコが本当に何の条件もなく話しているのなら、黒猫の尾の話も、金の話も、本当でなければならない。だが黒猫の尾は、七つまで開かない。
条件のない者は、嘘をつけない。嘘をついているのなら、条件がある。酒はない。長の命も、たったいま、ないと言った。その言葉まで嘘でないのなら、残るのは一つだけだ。
俺は点の横に、白墨で小さく書き足した。代価。
誰が払ったのかは、まだ書かなかった。黒板の少し上に、掲示板の依頼票が見えた。右上がりの、太い字。灰狼一名。
「隊長」と俺は言った。「今夜のニコの勘定は、金貨でした。八つに戻ってきて、蒸留酒を一杯頼んで、金貨を一枚置いた。この男が金貨で払ったのは、私が知るかぎり二度目です」
一度目は去年の夏、商隊の護衛で大当たりを引いたときだった。今夜は、黒猫の尾で三枚すったと言う男が、金貨で払った。十の鐘のころ、俺はそれを黒板に書かなかった。書かずに、ニコの欄に点を一つ打っただけだった。
隊長は黙って、トマスに顎をしゃくった。トマスが板に書きつけた。
*
僕は樽の前にしゃがんでいた。
酒蔵は冷たかった。地面の下の冷たさで、石の壁が汗をかいていた。氷箱のそばは、もっと冷たかった。上から、隊の人間たちの声と、椅子を引く音が、遠くに聞こえた。階段の上には、若い隊員が一人、槍を抱えて座っている。隊の人間が麦酒を欲しがったので、彼女が樽を取りに来た。樽を担ぐのは灰色の仕事だ。隊長は、灰色を一匹連れていけと言った。一匹、と言った。
欠けた左耳に、酒蔵の奥から来る冷たい風が当たった。
彼女は燭台を棚に置いて、樽の栓を確かめるふりをしていた。
「僕は、館には行っていない」と僕は言った。
彼女の白い耳が、僕の声のほうへ傾いた。燭台の火が、耳の縁を透かしていた。
「あら、今さら?」と彼女は言った。「知ってるわよ」
「上で、掟の話が出た」
「聞こえてたわ」
「掟のことは、僕がなんとかする」
彼女は樽の栓から指を離して、僕を見た。燭台の火が、彼女の目の中で揺れた。
「あら? なんとかって、なに?」
僕は答えなかった。彼女も、答えを待たなかった。彼女は、僕が答えないのを知っていて訊いた。
彼女は、あの石のことは何も訊かなかった。僕も訊かなかった。どこにあるのか、僕は知らない。知らないことは、訊かれても言えない。彼女は、そういうふうにしてくれた。
「重いわよ、この樽」と彼女は言った。
「知ってる」
僕は樽を担いだ。肩に食い込む重さは、夕方、あの石を掌に載せたときの重さとは、ぜんぜん違った。あの石は軽かった。軽いくせに、温かかった。
階段を上がるとき、彼女は僕の後ろから、燭台を掲げてくれた。僕の影が、石段の上で大きく揺れた。
*
樽が酒場に運び込まれて、隊員たちに麦酒が回った。俺が注いだ。組合持ちの勘定で。バルタザールは、それについて何も言わなかった。言う元気が、もう残っていないように見えた。
夜半の鐘が、大聖堂のほうから鳴り始めた。十二。数えるのに、ずいぶん時間がかかった。
隊長は、麦酒には口をつけずに、登録簿を閉じた。
「整理しよう」と隊長は言った。「白い法衣は賢者で、組合長の推挙で、組合長の『言ってやれ』のあとで灰色を見たと言い、いまはそれに答えない。盗賊は菫の匂いの手袋をして、素面で、組合長には何も言われていないと言い、金は受け取っていないと言う。だが黒猫の尾は七つまで開かない。組合長は、自分の字で灰狼一名の依頼を出し、騒ぎの最中に階段の下へ入って、青い顔で出てきた」
隊長は、階段の三段目を見た。
「罠のにおいがする。灰色を館へ行かせて、灰色に着せるための罠のにおいだ」
バルタザールは、何も言わなかった。太い指で、膝の埃を払っていた。何度も、何度も。
「だがな、酒場番」と隊長は俺を見た。「罠のにおいは、石じゃない。夫人が欲しいのは、においじゃなくて石だ。参事会が欲しいのは、石か、門の外へ出ていく灰色の背中だ。どちらかだ」
隊長は立ち上がって、外套の裾を払った。
「石が出なけりゃ、掟どおりにやる」




