第4章 登録簿(前編)
マグダ隊長は、水を一口飲んでから、杯を卓に置いた。
「いいか。一度しか言わない」
酒場の全員が、隊長を見た。隊員たちは壁ぎわに散って、棍棒を床に立てていた。表の扉は蝶番が一つ外れて、夜風がそこから入ってきた。暖炉の火が、そのたびに横へなびいた。焦げた梁からは、まだ細い煙が上がっていた。
「ロズモンド夫人の紅玉が消えた。夫人は参事会に顔が利く。参事会は、夜明けまでに石と盗人を出せと言っている。だから私も、夜明けまでに石と盗人を出す。出なければ、掟どおりにやる。館で起きた罪に亜人が関わっていれば、その亜人は開門とともに城の外だ。それで参事会は、一応は黙る。夫人は黙らないだろうが、それは私の仕事じゃない」
「掟どおり、というのは」と俺は訊いた。
「灰色を門の外へ出す。それだけだ」
裏口の床で、二人の灰色は動かなかった。耳の欠けたほうが、隣の首の白い毛のほうへ、ほんの少しだけ肩を寄せた。
「隊長さん」とアガタが言った。「まだ、どなたが盗んだのかも分かっていないのに」
「分かっていないから、夜明けまで待つと言っている」隊長はアガタを見た。「修道女。私は悪党じゃない。石が出て、盗人が出れば、灰色は谷へ帰る。出なければ、帰らない。それがこの街の決まりで、私はこの街に雇われている」
アガタは手袋の指を組んだ。何も言わなかった。言い返せる言葉が、この街の決まりの中には、たぶん一つもなかった。
「ヘルマン」と隊長は後ろを振り返った。「館の話をもう一度。ここの連中にも聞かせてやれ」
*
執事のヘルマンは、ハンカチを胸のポケットにしまって、背筋を伸ばした。館の執事らしい、よく磨いた声だった。
「本日、夕方六つの鐘の少し前、奥様は大聖堂の夕べの祈りにお出かけになりました。いつものことでございます。私は館に残り、明日の夜会の支度を差配しておりました。裏庭には、組合から酒樽運びの者が参りました。灰狼族の方がお一人。樽を裏庭から台所へ運び入れていただきました」
「依頼は、あなたが組合に」と俺は訊いた。
「はい。力のある運び手を一人、とお願いいたしました。種族のご指定は、しておりません」
階段の三段目で、バルタザールが咳払いをした。俺は掲示板の依頼票を思い出した。灰狼一名、とバルタザールの字で書いてあった。種族を書いたのは、執事ではなかった。
「奥様が八つ前にお戻りになり、化粧部屋に上がられて、石がないとお気づきになりました。紫の天鵞絨の小袋ごと、化粧台の小箱から消えておりました。化粧部屋の天窓が、開いておりました。あの天窓は、ふだんは閉めております」
「天窓」と隊長が繰り返した。
「屋根にございます、明かり取りの窓でございます。夜会の支度で、誰も上には参りませんでしたので、いつ開いたのかは分かりかねます」
「で、灰色の荷運びがいた、と隊に届けたのはお前だな」
「はい。夕方、館に出入りした外の者は、その方だけでございましたので」
隊長は裏口の床の二人を顎で示した。
「どっちだ」
執事は、ハンカチをもう一度取り出しかけて、やめた。二人の灰色を見た。さっきと同じように、見て、見て、見比べた。
「……申し訳ございません」と執事は言った。「私には、どちらの方だったのか、分かりかねます。灰色の毛並みで、背の高い方でした。お二人とも、そうでございます」
さっき執事が首を振ったのは、これだったのだ。
「だろうな」と隊長は言った。責める口調ではなかった。この街の人間なら誰でもそうだ、という口調だった。
*
「隊長」と俺は言った。「一つ、見ていただきたいものがあります」
「なんだ、酒場番」
「さっき火を投げた白い法衣の方の、身元です。組合の登録簿が、二階の書庫にあります。組合に出入りする者は、剣士も盗賊も魔法使いも賢者も、そこに名前と職が書いてある」
階段の三段目で、バルタザールが立ち上がった。
「おい、マスター。組合の帳面を、組合の外の人間が勝手に」
「勝手にではありません。隊長の前でです」
隊長は俺を見て、バルタザールを見て、また俺を見た。
「トマス」と隊長は言った。若い隊員が一人、壁ぎわから出てきた。頬にまだ産毛の残っているような若者だった。「酒場番と一緒に上へ行って、その帳面を持ってこい。酒場番が何か懐に入れないように見張れ」
「はい」
俺はトマスと二人で階段を上がった。三段目でバルタザールとすれ違うとき、太い靴が一歩だけ横へずれて、道を空けた。空けたというより、どいた。
二階の書庫は、埃と羊皮紙と蝋の匂いがした。イゾルデが夕方にいたはずの部屋だ。机の上に帳簿が一冊、開いたままになっていた。今日の日付の頁で、途中まで数字が書いてあって、そこから先は白かった。
登録簿は、奥の棚のいちばん下にある。牛革の表紙の、分厚い本だ。俺はそれを抜いて、トマスに渡した。トマスは両手で抱えて、「重いっすね」と言った。
階段を下りる途中で、トマスが小声で言った。
「酒場番さん。あの卵、売り物っすか」
「売り物ですよ」
「あとで一個、いいっすか。夕方から何も食ってなくて」
「一個、銅貨二枚です」
「高っ」
若い隊員は、そう言って少し笑った。この夜、笑った人間は数えるほどしかいない。
*
隊長は登録簿を卓に広げて、指で頁をめくった。最近の登録は、後ろのほうだ。隊長の指が止まった。
『エルノ・ファルク 職 賢者 白塔出 登録 先月十日 推挙 バルタザール・グロック』
隊長は、声に出して読んだ。一字一字、ゆっくり読んだ。読み終えて、顔を上げた。
「賢者。推挙、バルタザール・グロック」
酒場の全員の目が、窓際の白い法衣と、階段の三段目の太い男との間を往復した。
「書き間違いだ」とバルタザールが言った。「書記の書き間違いだ。エルノは下町の礼拝所の神官だ。俺は神官として推挙した。書記が職の欄を間違えたんだ」
「書記の字には見えないな」と隊長は言った。「右上がりの、太い字だ。さっき見た掲示板の依頼票と、同じ手に見える」
バルタザールは口を閉じた。
隊長はエルノのほうを向いた。
「お前は、賢者か」
エルノは膝の上の手を見ていた。袖口の焦げが二つ、並んでいた。
「エルノ」とバルタザールが言いかけた。
「組合長」隊長が遮った。「黙れ。いまはこの男に訊いている。この建物の中で、お前が『言ってやれ』と言うたびに、誰の言葉が誓約の外に出るのか、私も酒場番の黒板で覚えた」
隊長は黒板のほうを見もせずに言った。俺の黒板には、エルノの欄の条件のところに、横線と斜線が一本ずつ引いてあるだけだ。隊長はそれを見ていたらしい。見られて困るものは書かない。見られて困らないものしか書かない。だが、見る人間が見れば、線一本でも読める。
エルノは長いこと黙っていた。それから、顔を上げずに言った。
「……私は、白塔の者です」
「賢者だな」
「はい」
「では、九つ半に言った話。館の塀を越える灰色を見た、という話。あれは」
エルノは口を開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
「……お答え、できません」
黙ることは、誰にでもできる。嘘をつける者にも、つけない者にも。エルノは、嘘をつく代わりに黙ることを選んだ。長の命がなければ、あの男は組合の建物の中で嘘をつけない。いまバルタザールは黙れと言われている。命じる口が塞がれている。
「そうか」と隊長は言った。「トマス。帳面に書いておけ。白い法衣の見たという話は、消しだ。嘘をつける男が、嘘をつけと言える男の前で言った話だ」
窓際で、イゾルデが帳面を強く抱きしめた。指の節が白くなっていた。




