第3章 白い法衣(後編)
僕は床に押しつけられていた。
誰かの膝が、背中に乗っていた。誰かの手が、首の白い毛を掴んでいた。チビたちが引っぱるのとは、ぜんぜん違う掴み方だった。毛の根もとが焼けるみたいに痛かった。
「灰色を押さえた!」と頭の上で誰かが言った。「こいつだろう、館の」
僕は、はい、とも、いいえ、とも言わなかった。訊かれていなかったからだ。人間は、灰色に訊かない。押さえるだけだ。
左の腕が、床の板にこすれていた。夕方、樽の輪で擦りむいたところが、またうずいた。七つの鐘を、僕は中庭の井戸端で聞いた。汲んだ水を腕にかけたら、しみた。鐘は七つ鳴って、七つで終わった。あのときの水は冷たくて、よかった。いまは、床の板が冷たいだけだった。
焦げた匂いがしていた。人間の火の匂いだ。人間の火は、いつも急に来る。
下の谷では、火は年寄りが起こす。石を打って、枯れ草に移して、時間をかけて育てる。人間の火は育てない。掌から、いきなり出てくる。だから人間の街では、火のそばでは身を低くしろと、僕は子どものころに教わった。いまの僕は、言われなくても身を低くしていた。膝と手で、押しつけられていたから。
城壁の外には、火がない。冬の荒れ野には、年寄りも、枯れ草を集める子どももいない。掟で門を出された者が、次の春に谷へ戻ってきた話を、僕は聞いたことがない。
床に頬をつけた僕の目の前を、いろんな足が通っていった。隊の鉄の靴。ダリオの泥だらけの長靴。ルルの小さな黒い靴は、カウンターの内側から動かなかった。
それから、底の厚い、大きな靴が一足、僕の目の前を横切っていった。みんなが梁の焦げを見上げているあいだに、その靴だけが、上を見ないで、階段の下の暗がりへまっすぐ歩いていった。板が、その靴の重さの分だけ、きしんだ。
チビたちは、今夜はもう寝ただろうか、と僕は思った。上の子は、僕が干し肉を買って帰るのを待っていたはずだ。僕は干し肉を買わなかった。買いに行く前に、ここの閂が下りた。
首の毛を掴んでいる手に、少しだけ力がこもった。僕は目を閉じた。僕は、何も言わなかった。
*
俺はそのとき、酒場じゅうが梁の焦げとエルノの掌を見上げているのを、カウンターの内側から見ていた。
見上げていない者が、二人いた。
一人は、ルルだった。ルルは焦げを見ていなかった。ルルの白い耳は、二本とも後ろへぺたりと寝ていて、目は裏口の床のほうを見ていた。灰色の片方が、隊員に首の毛を掴まれて床に押しつけられている。耳の欠けたもう一方は、隣で両手を上げたまま、膝をついていた。ルルは唇を噛んで、それを見ていた。何も言わなかった。いつもは客が皿を割っただけで「あら大変」と言う娘が、何も言わなかった。
もう一人は、バルタザールだった。
太い背中が、酒場の人の輪から一つだけ外れて、階段のほうへ動いていった。上を見ないで、下を見ていた。階段を上るのではなく、階段の下の暗がりへ、体を横にして入っていった。ザザの箒が何本か、倒れる音がした。
騎士盤なら、王は自分からは動かない。駒を動かすのは、指し手だ。王が自分から盤の隅へ歩いていくのは、そこに何か、自分でなければ取りに行けないものを置いてあるときだけだ。
俺は、ザザを探した。ザザは階段下の暗がりの外、壁ぎわに、いつのまにか箒を抱えてしゃがんでいた。ザザは焦げも見ていなかった。階段の下を見ていた。蜥蜴人は、人を足で覚える。
*
「全員、座れ」
女の声が言った。
扉の残骸をまたいで、声の主が入ってきた。四十がらみの、背の高い女だった。革の胸当てに治安維持隊の灰色の外套。左の頬に、古い刃物の傷が一本、耳の下から口の端まで走っている。腰の剣は抜いていなかった。抜く必要のない女の歩き方だった。
後ろに、黒い上着の痩せた初老の男がついてきた。上着の胸にロズモンド家の紋が縫い取ってある。館の執事だろう。松明の明かりの中で、執事は焦げた梁と倒れた卓を見て、ハンカチで鼻を押さえた。
「治安維持隊、隊長のマグダだ」と女は言った。「この建物にいる者は、全員そのまま。灰色は放していい。逃げやしない。逃げる場所がない」
隊員が灰色の首から手を離した。首に白い毛のあるほうが、ゆっくり身を起こした。耳の欠けたほうが、その肩に手を置いた。二人は並んで、また裏口の床に座った。マグダ隊長は、二人のほうを一度だけ見た。二人を見たのではなく、灰色を見た目だった。
隊長は酒場を見回して、梁の焦げで目を止めた。
「誰が撃った」
誰も答えなかった。何人かの目が、窓際を向いた。エルノは袖の中で手を握ったまま、床を見ていた。
「神官が火を投げたと、うちの若いのが言っている」隊長は言った。「神官は火を投げない。つまり、あれは神官じゃない。まあいい。それはあとだ」
隊長は酒場の真ん中の卓を一つ起こして、そこに腰を下ろした。
「名前を言え。端から」
一人ずつ名乗った。マスター。ルル。ダリオ。ニコ。イゾルデ。エルノ。アガタ。ザザ。隊長は一人ずつ顔を見て、うなずいた。うなずくたびに、後ろの隊員が板に何か書きつけた。
裏口の床の番になったとき、隊長は二人を指さして、隊員に言った。
「灰色、二」
それで終わりだった。名前は訊かなかった。耳の欠けたほうが口を開きかけて、閉じた。訊かれていないことを言っても、帳面には載らない。首に白い毛のあるほうは、最初から口を開かなかった。
執事が、ハンカチの向こうから、その二人をじっと見ていた。見て、見て、見比べて、それから小さく首を振った。何に首を振ったのかは、そのときは分からなかった。
「マスター。水を一杯。それから、この建物の主は誰だ」
「組合長のバルタザール・グロックです」と俺は言って、水を注いだ。「いまは、階段のほうに」
隊長が振り向いた。
バルタザールが、階段の下の暗がりから出てくるところだった。体を横にして、狭いところから抜け出してきた。膝に埃がついていた。手には何も持っていなかった。何も持っていない手を、どこに置いたらいいか分からないみたいに、腹の前で握ったり開いたりしていた。
「組合長」と隊長は言った。「階段の下で、何をしていた」
「……箒が倒れた」とバルタザールは言った。声がかすれていた。「隊の若いのが蹴飛ばしたんだろう。直してただけだ」
「この騒ぎの最中に、箒を」
「掃除番のトカゲは、箒が倒れてると機嫌が悪くなるんだ」
隊長はしばらくバルタザールを見て、それから壁ぎわのザザを見た。ザザは箒を抱えたまま、バルタザールの靴を見ていた。何も言わなかった。訊かれていなかったからだ。
「まあいい」と隊長は言った。「それもあとだ」
顔から、血の気が引いていた。
さっきまで赤くなったり白くなったりしていた顔が、いまは白いだけだった。唇まで白かった。目が、酒場の誰のことも見ていなかった。いまそこにあるものではなく、そこにないものを見ている目だった。
俺は、ああいう顔を知っている。斥候だったころ、何度も見た。野営地に戻って、隠しておいた食料の包みを掘り返して、そこに何もなかった男の顔だ。自分で埋めた場所を、自分がいちばんよく知っている。だから、そこにないということが、誰よりもよく分かる。
あるはずの場所に、なかった顔だった。




