第2章 嘘の作法(後編)
イゾルデは呼ばれる前から、叔父の横で帳面を抱えて身を固くしていた。
「イゾルデ」とバルタザールが言った。「お前も言ってやれ。夕方の俺のことをな」
また、長の命だ。
イゾルデはカウンターの前まで来ると、帳面を胸に押しつけたまま言った。
「六つの鐘から七つ半まで、叔父は二階で、私と帳簿をつけていました。ずっと一緒でした。叔父は部屋から一歩も出ていません」
「ずっと、ですか」
「ずっとです」
イゾルデの目は俺を見ていなかった。黒板の、何も書いていない隅を見ていた。
「俺は夕方ずっと二階にいた」バルタザールが階段の上から付け足した。「帳簿の締めだ。組合ってのは、帳簿で回ってるんだよ」
バルタザールは誓約の主で、誓約に縛られない。イゾルデは誓約に縛られるが、いまは長の命がある。つまり、この二つの言葉は、黒板の上では二つとも宙に浮く。
俺は黒板に書いた。イゾルデ。二階の書庫。条件、長の命。バルタザール、二階、と本人は言う。条件、なし。縛られない。
*
アガタは自分から来た。修道女は呼ばれるのを待たない。
「わたしは六つの鐘に大聖堂で夕べの祈りに出て、六つ半に祈りが済んでから、裏の路地で物乞いの子たちにパンを配っていました。この組合の裏手の路地です。それから八つに、ここへ施療に参りました」
「路地で、誰かを見ましたか」
アガタは手袋の指を組んだ。
「若い男の方と、すれ違いました。暗くて、顔は見ていません。路地の奥へ曲がっていかれました」
「どんな男でした」
「路地の男なんぞどうでもいい」階段の上から、バルタザールが遮った。「物乞いにパンを配ってりゃ、酔っ払いの一人や二人とすれ違うだろうが。灰色の話をしろ、灰色の」
アガタは口を閉じた。訊かれたことには答える。訊かれなくなったことには、答えない。嘘をつかない者は、話の途中で黙らされると、そこで止まる。
分からないことを分からないと言うのが、嘘をつかない者の強みだ。そして弱みでもある。アガタの話は、顔のない男と、路地の奥で終わった。
俺は黒板に書いた。アガタ。大聖堂、のち裏の路地。条件、なし。嘘をつかない。六つ半、裏の路地で若い男。
ニコは窓際の卓で、手袋をはめたまま蒸留酒のグラスを回していた。グラスの中身は、まだ減っていなかった。
*
「なあ、マスター」
階段下の暗がりから、ザザの声がした。蜥蜴人の声は、乾いた落ち葉をこすり合わせたみたいに低い。酒場の何人かが、はじめてザザがそこにいたことに気づいたような顔をした。
「私の箒は今夜、二度動かされた」
一拍おいて、ダリオが噴き出した。
「箒が! 二度! そいつは大事件だ、隊長さんに届けなきゃな」
笑いが酒場に広がった。ニコも笑った。バルタザールは笑わなかったが、「トカゲの寝言だ」と言って手を振った。ザザはそれ以上何も言わず、箒を抱き直して、また壁になった。
俺は笑わなかった。黒板の隅に、ザザ、箒、二度、と小さく書いた。嘘をつけない者は、見たとおりのことしか言わない。見たとおりのことを言っている者の言葉が、この街ではいちばん聞き流される。
石取りの盤の上なら、ザザはこういう打ち方をする。何の意味もなさそうな隅に、石を一つだけ置く。俺はそれを見て、意味がないと思って放っておく。三十手あとに、その石が俺の陣地の真ん中を割る。そういう負け方を、俺はこの三年で何十回もしている。
笑いが引いたところで、俺は掲示板のほうへ歩いた。依頼票がびっしり貼ってある板だ。討伐、護衛、荷運び、どぶさらい。その中に、今日の日付の一枚があった。
『ロズモンド館 酒樽運び 夕方六つ 灰狼一名 報酬銀貨三枚 グラウヴァル冒険者組合長 バルタザール・グロック』
バルタザールの署名は、太くて右上がりだ。依頼票はたいてい受付の書記が書くが、これは本人の字だった。灰狼一名、と種族まで指定してある。
「この依頼、組合長が出したんですね」と俺は言った。
「館の執事から頼まれたんだよ」バルタザールは階段の上で言った。「力のある荷運びを一人よこせってな。灰色は力がある。だから灰色だ。それだけの話だ」
「それだけの話ですね」
「そうだ。それだけだ。で、館にいた狼を突き出せば、それで済む。この街の掟は、お前も知ってるだろう」
知っている。この街の人間なら誰でも知っている。
灰壁の掟。貴人の館で起きた罪に関わった亜人は、罪があろうとなかろうと、夜明けの開門とともに城外へ追放される。城壁の外は、魔物と野盗と冬の荒れ野だ。追放された亜人が次の春を見ることは、あまりない。掟ができたのは百年前だそうだ。百年、誰も直そうとしなかった。
裏口の床で、首に白い毛のある灰狼が、目を閉じた。隣の耳の欠けた灰狼は、目を開けたまま、じっと床の木目を見ていた。
俺は、二人に訊こうとした。盗んだか、と。嘘をつけない連中だ。一言で済む。
「訊くな」とバルタザールが言った。「隊が来てから、隊の前で訊け。お前が訊いて、灰色が何か言って、それを誰が帳面に書く? 亜人の『いいえ』は、この街じゃ一文にもならねえ」
訊けば済むことを、この街は訊かない。俺は黒板の前に戻って、白墨を置いた。
*
僕は階段の下に入った。
欠けた左耳に、裏口の隙間風が当たった。耳の欠けたところは、いつも風を先に拾う。
酒場で起きているのは、彼女と、隅で箒を抱えたまま動かない年寄りだけだった。いつもなら、この刻はカウンターの奥で樽を転がす音がする。今日はしなかった。窓の西のほうに、まだ赤が少しだけ残っていた。大聖堂の鐘が鳴っていた。
階段の下は、箒と古い紙の匂いがした。年寄りの箒が何本も立てかけてあって、その奥に、埃をかぶった木の箱が積んであった。帳簿の箱だ。いちばん上の箱だけ、埃が指の形に拭われていた。太い指の形だった。彼女が言ったとおり、いちばん上の箱だった。
箒をどけた。一本、二本。箱の蓋を開けた。古い帳面の上に、柔らかい布の小さな袋が載っていた。
袋から、花を煮詰めたような甘い匂いがした。
袋ごと掴むと、中の固いものが、僕の掌に収まった。温かかった。石のくせに、生きものみたいに温かかった。
これが、人間たちが大騒ぎする石か、と僕は思った。大騒ぎするわりに、小さかった。鳥の卵くらいしかない。こんなもののために、人間は灰色を一匹、城壁の外へ放り出すつもりなのだ。
僕の心臓が、耳の中で鳴っていた。欠けた耳のほうが、よく聞こえた。
袋を懐に入れた。温かさが、毛皮越しに胸へしみた。
僕は箒を元に戻した。一本、二本。年寄りは何も言わなかった。見ていたのかもしれない。年寄りは、訊かれたことしか言わない。
カウンターへ行った。彼女は、白い布を巻いた手首を、黙って差し出した。僕は袋を、その手に載せた。
彼女は何も訊かなかった。どこから持ってきたのかも、なぜ持ってきたのかも。僕も、それをどこへやるのかは訊かなかった。
彼女の匂いは、干し草と、夜の月みたいな匂いだった。僕はそれを一度だけ吸い込んで、裏口から中庭へ出た。
*
十の鐘から半刻たったころだった。
カウンターの端で、ルルが顔を上げた。白い耳が二本そろって、表の扉のほうへ向いた。九つの鐘の前と、同じ向きだった。
「来るわ」とルルは言った。
「何がです」と俺は訊いた。
「たくさん。靴の底に鉄を打ってる人たち。十人より多いわ。上町の坂を下りてきてる」
俺には何も聞こえなかった。酒場の誰にも聞こえなかった。バルタザールが階段の上で腰を浮かせた。
「官憲は夜明けだと言ったぞ」
「あら? じゃあ、あの足音は誰?」
誰も答えなかった。暖炉の薪が崩れて、火の粉が上がった。
バルタザールが階段を二段下りて、また一段上がった。太い靴が板を鳴らした。行き先を決めかねている獣の足取りだった。
「イゾルデ」とバルタザールは言った。「エルノのそばにいろ。ニコ、お前は表の閂のところだ。隊が来たら、俺が話す。誰も余計なことを言うな。いいな。誰もだ」
イゾルデがうなずいた。ニコは肩をすくめて表の扉の前に立った。エルノは窓際で、白い法衣の袖を膝の上で握りしめていた。
ルルはカウンターの端から動かなかった。白い耳だけが、扉の向こうの音を追って、ゆっくり角度を変えていった。上町の坂を下りきった、と耳が言っていた。広場を横切った、と耳が言っていた。俺はその耳を見ていた。三年間、この店で、いちばん正確な見張り台はあの二本の白い耳だった。
三つ数えるほどして、俺にもそれが聞こえた。石畳を踏む、揃っていない、重い靴音。一つや二つではなかった。




