第2章 嘘の作法(前編)
十の鐘が鳴るころには、酒場の空気は煮詰めすぎた豆のスープみたいになっていた。
誰も帰れない。誰も寝られない。バルタザールは階段の三段目に腰を下ろして、そこから酒場全体を見張っている。見張るというより、見下ろしている。灰狼の二人は裏口の床に並んで座り、ときどき耳だけを動かした。ザザは相変わらず階段下の暗がりで、箒を抱いて壁になっている。
「マスター」とバルタザールが言った。「お前、昔は斥候だったな。夜明けまで暇だ。一人ずつ話を聞け。灰色が盗んだって筋を、きれいに固めとけ」
「固まるかどうかは、話を聞いてからですね」
「固めろと言ってるんだ」
俺は返事をしないで、カウンターの後ろの黒板を拭いた。いつもは今日の酒と値段を書いておく板だ。白墨で線を引いて、欄を作った。名前。夕方六つから八つまでの居場所。嘘をつける条件。
酒場の何人かが、酒を飲むふりをして黒板を覗き込んだ。見られて困るものは書かない。見られて困らないものしか、黒板には書かない。これも斥候の癖だ。
「一人ずつ、ここへ」と俺は言った。「一杯おごります。今夜の勘定は組合持ちだそうですから」
バルタザールが何か言いかけて、やめた。
ルルが盆に水の杯を二つ載せて、裏口の床へ運んでいった。灰狼の二人の前にしゃがんで、一つずつ手渡した。
「はい、シグ。はい、ヴェイ。喉、乾いたでしょ」
二人は黙って受け取った。耳の欠けたほうが杯を両手で包むように持ち、首に白い毛のあるほうは一息で飲み干した。
「おいバニー」とバルタザールが言った。「盗人に水をやるな」
「あら? 盗人って、誰のこと?」
「灰色に決まってるだろうが」
「決まってるの? まだ誰も決めてないのに?」
ルルはにっこり笑って、空の杯を盆に戻した。バルタザールは口を開けて、閉じた。うちの看板は、怒鳴る男の扱いがうまい。三年間、酔っ払いの相手をしてきたせいだ。
窓際の卓で、ニコがくすくす笑った。ダリオは「いいぞバニー」と言いかけて、アガタに睨まれて咳払いに変えた。イゾルデは帳面の角を指で撫でていた。エルノは膝の上で指を組んだまま、白い法衣の袖口の焦げを、もう一方の手の親指で隠すように押さえていた。
錆び釘亭は、普段はこんな店じゃない。今日の酒と、今日の煮込みと、今日の噂が黒板に並んで、下町の冒険者と上町の見習い騎士と、たまに下の谷の連中が、それぞれ別の卓で勝手に飲んでいる。喧嘩もあるし、歌もある。灰色もトカゲも人間も、金さえ払えば同じ杯で飲める。この街で、そういう店はそう多くない。それが今夜は、閂のかかった箱の中で、一つの方向ばかり見ていた。裏口の床の、二つの灰色の背中を。
*
最初に来たのはダリオだった。来たというより、カウンターに倒れかかってきた。
「俺は素面だ」
「知ってます」と俺は言った。「七杯目は薄めておきます」
「薄めるな」
「夕方は、どこに」
「表の長椅子だ。五つから八つまで。風に当たりながら飲むのがいいんだ。灰色が上町のほうから走ってきたのは本当だぞ。首んとこに白い毛がふさふさしてやがった」
「そのとき、何か咥えていましたか」
ダリオは片目をつぶって、天井を見た。
「咥えてた。赤いもんを。……咥えてた気がする。いや、咥えてた」
「いつごろです」
「半の鐘が鳴ったあとだ。六つ半」
俺は黒板に書いた。ダリオ。表の長椅子。条件、酒精。それから、六つ半、灰色が上町から戻る、と別の欄に書いた。赤いものの話は書かなかった。
ダリオは薄めた麦酒を一口飲んで、顔をしかめた。
「薄いじゃねえか」
「七杯目ですから」
「俺は素面だって言ってるだろ」
酔っ払いの言葉にも、真実は混じる。混じっているから、たちが悪い。灰色が上町から走ってきた。首に白い毛があった。これはたぶん本当だ。赤いものを咥えていた。これは、この男が一度つかえてから言い直した。どちらにしても、酒精の言葉は誓約の外にある。信じていいとも、いけないとも、決められない。
*
エルノは、呼ぶとすぐに来た。白い法衣の裾をさばいて、カウンターの椅子に浅く腰をかけた。
「一杯、いかがです」
「葡萄酒を、少しだけ」
俺は小さな杯に葡萄酒を注いだ。エルノは口をつけずに、杯の脚を指でつまんだ。
「夕方、上町の坂を歩いていたとおっしゃいましたね」
「ええ。下町の宿から、上町の方のお宅へ、祈りに呼ばれて向かう途中でした」
「どちらのお宅です」
「それは……申し上げられません。病人のいる家です。人に知られたくないと」
「六つの鐘の少しあと」
「ええ。夕べの祈りの鐘が鳴り終わってすぐでした」
「聖職者の方は、夕べの祈りには大聖堂へ行かれるものだと思っていました」
エルノは微笑んだ。細い指が杯の脚から離れた。
「務めは人それぞれです。病人の枕元も、祈りの場ですから」
暖炉の側で、アガタが顔を上げた。
「神官様。それでは、灯に誓っていただけますか。塀を越える灰色を見たと。灯火教会の者は、灯に誓った言葉を違えません。それで、この場の皆さんも安心なさるでしょう」
エルノの手が、一瞬止まった。
「誓いは」とエルノは言った。「軽々しく立てるものではありません。姉妹なら、ご存じでしょう」
「ええ、存じております」アガタは静かに言った。「ですから、お願いしているのです」
「神官様を疑うのか、修道女」階段の上から、バルタザールの声が落ちてきた。「見たと言ってるんだ。嘘をつかない方がな。それで足りるだろうが」
アガタは何も言わずに、手袋の指を組み直した。エルノは葡萄酒に口をつけないまま杯を置いて、窓際の卓へ戻っていった。
俺は黒板に書いた。エルノ。上町の坂。条件、と書いて、そこで白墨を止めた。聖職者なら、条件の欄はいらない。聖職者なら。俺は条件の欄に、小さく横線を一本だけ引いた。引いた線の意味も、俺にしか分からない。
*
次にニコが来た。カウンターの椅子に、猫みたいに音もなく乗った。
「俺は関係ないぜ」
「まだ何も訊いてませんよ」
「訊かれる前に言っとくのが礼儀ってもんだ」ニコは笑った。「夕方は六つから八つまで、黒猫の尾で札をやってた。負けた。三枚すった。八つにここへ戻った。以上」
黒猫の尾は、下町の賭場だ。そこの親父は信心深くて、大聖堂の夕べの祈りを一度も欠かしたことがない。祈りから戻って店の戸を開けるのは、毎晩七つの鐘だ。七つより前に行っても、戸の前で野良猫と札をやるしかない。
俺はそれを口には出さずに、黒板に書いた。ニコ。黒猫の尾。六つから八つ、と本人は言う。
「八つに戻ってきて、何を飲みました」
「いつもの蒸留酒」
「条件は」と俺は訊いた。
「条件?」
「今夜、酒は」
「一滴も。まだ蒸留酒に口をつけてねえ。ほら」ニコは卓の上のグラスを指で弾いた。中身は減っていなかった。
「珍しいですね。いつもは一杯目を一息で空けるのに」
「今夜は酔えねえよ。こんな夜に酔ったら、何言わされるか分かったもんじゃねえ」ニコは親指で、ダリオのほうを指した。「ああいうふうにな」
暖炉の前で、ダリオが「俺は素面だ」と誰にともなく言った。
「金は」
「金?」ニコは笑った。「誰が俺に金なんかくれるんだよ」
問いで返した。問いで返すのは亜人の作法だ。人間がやると、ただの返事の先延ばしになる。俺は黒板のニコの欄に、条件、なし、と書いて、その横に小さな点を一つ打った。点の意味は、俺にしか分からない。
ニコは椅子から音もなく下りて、手袋をはめ直しながら窓際の卓へ戻った。革の薄い手袋だった。盗賊は、夜は手袋を外さない。指紋を残さないためではなく、指先の皮を守るためだ。錠前を探る指は、商売道具だから。




