第1章 突き出せ(後編)
「ほらな」とバルタザールは言った。「灰色が館にいた。話は済んだ」
「済んでませんよ」と俺は言った。「館にいたことと、盗んだことは違う」
「違わねえよ」
暖炉の前でダリオが立ち上がった。麦酒の泡が髭についていた。
「俺は見たぞ。夕方、表の長椅子で飲んでたらよ、灰色が上町のほうから走ってきやがった。口に赤いもんを咥えてな」
「咥えて」と俺は繰り返した。
「おう。赤いもんだ。鶉の卵くらいの」
ダリオの声は大きかったが、足元は揺れていた。六杯目の麦酒で揺れない男はいない。
「ダリオさん」とアガタが言った。「あなたは飲んでいますね」
「俺は素面だ」
酒場のあちこちで、失笑が漏れた。ダリオは顔を赤くして座り直した。アガタは首を振って、手袋の指先でダリオの拳の傷をなぞった。
「傷を洗いましょう。癒しの祈りは、そのあとで」
「私がやりましょう」
窓際から、白い法衣の男が立った。エルノは細い指をダリオの拳にかざして、短い祈りの言葉を唱えた。
「灯よ、灯よ、この手の……この手の傷を、照らして……塞ぎたまえ」
言葉が一度つかえた。祈りの文句を思い出すときの、ほんの一呼吸だった。それでもダリオの拳の擦り傷は、見ているうちに薄い桃色の皮膚に変わった。ダリオは拳を開いたり閉じたりして、舌打ちみたいな礼を言った。
「神官様とシスターがいりゃ安心だ」とダリオは言った。「嘘をつかねえお方が二人もいる」
「わたしどもは、灯の前に偽りを申しません。それが誓願です」アガタは言った。「その代わり、灯は癒しと祈りしかお与えになりません。火や雷のような攻めの術は、わたしどもには使えないのです」
「へえ。神官様もか」
「灯火教会の者は、みな同じです」アガタはエルノの背中に目をやった。「ただ、白い法衣を着ているのは、灯火教会の者だけではありません。白塔の賢者様も、同じ白い法衣をお召しになります。胸の灯の刺繍の形が少しだけ違うのですけれど、町の方にはまず見分けがつきません。賢者様は、癒しの祈りも攻めの術もお使いになります。組合に登録なさるときは、登録簿に職をお書きになるはずですけれど」
「難しいこと言うなよ、シスター」ダリオは頭をかいた。「白いのは白いのだろ」
アガタは何も言わずに、卓へ戻りかけた白い法衣の背中へ声をかけた。
「神官様。失礼ですが、どちらの聖堂のお勤めですか。わたしの教会では、お見かけしませんが」
「下町の小さな礼拝所です」とエルノは言った。「大聖堂の方とは、なかなかご縁がなくて」
「灯火教会は大きいですから」
アガタはそれ以上は訊かなかった。修道女というのは、訊かないことにかけては亜人より上手だ。
*
ここで、今夜の作法を整理しておく。この夜の話は、全部これの上に乗っている。
亜人は嘘をつけない。黙る、はぐらかす、問いで返す。それだけだ。
聖職者も嘘をつかない。その代わり、攻めの魔法は使えない。
組合の剣士・盗賊・魔法使い・賢者は、この建物の中では仲間に嘘をつかない。ただし、長の命と、代価と、酒精。この三つのどれかがあれば、その言葉は誓約の外に出る。
賢者は聖職者と同じ白い法衣を着る。身元は登録簿に書いてある。
誓約の主であるバルタザールは、誓約に縛られない。それから、組合を抜けた人間も縛られない。たとえば俺だ。
そして、この街の人間は、同じ種族の亜人を一人一人見ない。
つまり、この酒場で誰かが何かを言ったら、その言葉を信じていいかどうかは、言った人間の名前ではなく、言ったときの条件で決まる。酔っているか。金をもらっているか。バルタザールに言えと言われたか。そういう盤の上で、今夜の話は進む。
ダリオは六杯目だ。灰色が赤いものを咥えていたという話は、本当かもしれないし、嘘かもしれない。どちらか分からない、というのがこの街の作法の答えだ。
*
ニコが椅子の上で身じろぎした。
「なあ、組合長。官憲が来るってのは、いつだ」
「夜明けの開門前だとよ」バルタザールは封蝋の紙切れを暖炉に放り込んだ。紙はすぐに丸まって燃えた。「それまでに、こっちで盗人を突き出しとけば、組合の名に傷がつかずに済む。懸賞金の話もある」
「懸賞金は、石が出てきたらの話でしょう」と俺は言った。
「石も出る。盗人を突き出せば、石も出る」
「だったらよ」ダリオが卓を叩いた。「灰色の荷袋をひっくり返しゃ早え。厩の二階だろ。俺が見てきてやる」
「やめとけ」バルタザールが即座に言った。「官憲が来てからだ。俺たちが先に手を突っ込んだら、あとで何を言われるか分からん。隊の目の前で開けさせる。それがいちばん話が早い」
妙に筋の通ったことを言う、と俺は思った。バルタザールが筋の通ったことを言うのは、たいてい、自分の得になる筋が一本通っているときだ。
バルタザールはそう言って、窓際の卓を見た。白い法衣の男が、膝の上で手を組んでいた。
「エルノ」とバルタザールは言った。「見たことを言ってやれ」
長の命だ。組合の建物の中で、誓約の主が「言ってやれ」と言った。俺はカウンターの内側で、それを頭の隅の帳面に書きつけた。
エルノが立ち上がった。白い法衣の裾が、床の藁屑を払った。
「六つの鐘の少しあと、私は上町の坂を歩いていました。ロズモンド館の横を通ったとき、館の塀を越える灰色の亜人を見ました。塀の上に、ほんの一瞬。すぐに裏庭の側へ下りていきました」
酒場が静かになった。
嘘をつかないはずの白い法衣が、灰色を見たと言った。酔っ払いの戯言とは重さが違う。何人かの目が、はっきりと裏口の床の二人に向いた。ニコは口笛を吹く形に唇をすぼめて、吹かなかった。イゾルデは叔父の横で、帳面を抱えた腕に力を入れた。
「灰色の、どちらです」と俺は訊いた。
「どちら、とは」エルノは困ったように眉を寄せた。「灰色の亜人です。私には、どちらがどちらかは」
「でしょうね」
バルタザールが手すりを叩いた。
「聞いたな。神官様が見た。灰色が塀を越えた。夜明けまでに石を吐かせろ。それで終わりだ」
裏口の床で、二人の灰狼は動かなかった。耳の欠けたほうが、隣の首の白い毛のほうを一度だけ見た。何か言いかけて、やめた。嘘をつけない連中は、言えないことがあると、口を閉じるしかない。
カウンターの端で、ルルが白い耳をぴんと立てたまま、何も言わずに瓶の卵を眺めていた。
俺は拭いたグラスを、もう一度拭いた。
*
僕は樽を下ろした。
四つ目の樽だった。裏庭の石畳は夕方の湿りを吸って滑りやすく、樽の底を置くたびに、中の酒が重たく揺れた。樽の輪が左の腕を擦っていった。皮が少し剥けた。舐めると鉄の味がした。
館の裏庭は、人間の家の匂いがした。石鹸と、焼いた肉と、花を煮詰めたような甘い香水。台所の窓から、料理番の女が「そこ、そこに並べて」と言った。僕は言われたとおりに並べた。明日の夜会の酒だそうだ。人間の祭りは、酒の量で決まる。
首の白い毛の中に汗が溜まっていた。チビたちは、ここを引っぱるのが好きだ。今日の駄賃は銀貨三枚。帰りに干し肉を買っていける。上の子が脂身のところをほしがって、下の子が泣く。いつもそうだ。
大聖堂の鐘が鳴り始めた。夕べの祈りの鐘だ。人間たちが祈りに行く刻で、館の正面の扉が閉まり、馬車が出ていく音がした。夫人が大聖堂へ行くのだと、料理番の女が言った。
五つ目の樽を担ごうとして、僕は屋根を見た。
何かが動いた。西の空がまだ赤くて、屋根の端が黒く切り抜かれていた。その黒の上を、黒いものが滑っていった。猫にしては大きかった。鳥にしては低かった。天窓のあたりで、影は消えた。
僕は樽を担いだまま、少し待った。影はもう出てこなかった。
鐘は六つで鳴りやんだ。
僕は五つ目の樽を運んだ。見たものは、訊かれたら言うつもりだった。訊かれなければ、言わない。人間は、灰色の言うことを聞かない。それもいつものことだ。




