第1章 突き出せ(前編)
「ロズモンド夫人の宝石が奪われた。冒険者ギルドのメンバーらしいって話だ。もうすぐ官憲が来る。とっとと誰でもいいから突き出せ!」
九つの鐘の余韻がまだ梁に残っているうちに、ギルドマスターのバルタザール・グロックが、階段を下りながらそう怒鳴った。
階段は悲鳴を上げた。バルタザールという男は、体重と声の大きさで組合を切り盛りしてきた。底の厚い大きな靴で一段ずつ板を踏み抜くように下りてきて、最後の段で止まり、酒場を見回した。手には治安維持隊の封蝋のついた紙切れを握っていた。
俺はカウンターの内側でグラスを拭いていた。拭いていたグラスをそのまま棚に戻した。こういうときに手を止めると、何か知っていると思われる。
「閂をかけろ」とバルタザールは言った。「表も裏もだ。誰も出るな。出たやつが盗人だ」
「外はもう城門が閉まってますよ」と俺は言った。「出たところで、この街からは出られません」
「だから閂だ。街から出られなくても、下の谷には逃げ込める」
誰に向けた言葉かは、言わなくても分かった。酒場の空気が一段冷えて、暖炉の薪がはぜた。
剣士のダリオが立ち上がって表の扉に閂を渡した。樫の角材で、大人二人でようやく持ち上がる代物を、ダリオは一人で担いで金具に落とした。音が腹に響いた。酔っているくせに、こういうときだけ手際がいい。裏口のほうは、灰色の毛並みの男が黙って閂を下ろした。灰狼族の一人だ。バルタザールは礼も言わずに、その背中から目をそらした。
これで錆び釘亭は箱になった。城壁という大きな箱の中の、小さな箱だ。
バルタザールは階段の三段目に腰を下ろして、酒場の人間を一人ずつ睨んだ。
「いいか、お前ら。ここは組合の中だ。鉄の誓約を忘れるな。登録のときに誓ったろう。組合の建物の中じゃ、仲間に嘘はつかねえ。つけるのは三つのときだけだ。俺が言えと言ったとき。金をもらった相手のため。それと、酒が入ってるときだ」
「長の命、代価、酒精」窓際の卓で、盗賊のニコが節をつけて唱えた。「見習いのころ、耳にタコができるほど覚えさせられたよ。で、組合長は? 組合長も誓約してんだろ」
「俺は誓約の主だ」バルタザールは鼻を鳴らした。「主は、誓約に縛られん」
「つまり、嘘つき放題ってわけだ」
「文句があるなら組合を抜けろ」
ニコは肩をすくめた。暖炉の前でダリオが「俺は酒が入ってるから関係ねえな」と言って笑った。誰も一緒に笑わなかった。
そもそも、この騒ぎの始まりは、九つの鐘の少し前だった。
ルルがカウンターの端で、ふいに顔を上げた。白い耳が二本そろって、表の扉のほうへ向いた。俺はそのとき何も聞こえなかった。ダリオの鼾まじりの笑い声と、暖炉の薪の音しかなかった。それから三つ数えるほどして、石畳を走ってくる靴音がして、扉が叩かれた。
治安維持隊の若い使いだった。息を切らして、封蝋のついた紙を組合長へ、と言った。ルルが受け取って二階へ運んだ。バルタザールの部屋は、ちょうどこの酒場の真上にある。床板が薄いので、上で椅子を引く音まで下に響く。紙を読む間があって、椅子が倒れる音がして、それから例の怒鳴り声になった。
ルルは使いに水を一杯出してやってから、扉を閉めた。使いは「夜明けまでに」とだけ言い残して、走って帰っていった。
*
箱の中身を数えておく。俺は昔、斥候だった。部屋に入ったら人数と出口を数える癖が、組合を抜けて十年たっても抜けない。
まず俺。錆び釘亭の雇われ酒場番で、名前はあるが誰も呼ばない。マスターで通っている。
カウンターの端に、ルル。この店の給仕で、うちの看板だ。黒い胴着に網の靴下、白い付け襟と、手首に巻いた白いカフス。頭の上には白い耳が二本立っていて、腰の後ろには白い丸い尾がある。髪は亜麻色で、耳の横に長く垂らしている。客はみんな「バニー」と呼ぶ。三年前、腹を空かせてこの街に流れてきた娘を、俺が拾って雇った。制服は俺が選んだ。
階段の三段目にバルタザール。その後ろに、姪で魔法使いのイゾルデ。三十を少し過ぎた痩せた女で、いつも帳簿の匂いがする。
窓際の卓に、白い法衣の男。エルノという。先月からこの組合に出入りしている。胸に灯火の刺繍があり、みんなは「神官様」と呼んでいる。四十がらみで、指が細い。法衣の袖口に、小さな焦げがひとつあった。
その隣の卓に、盗賊のニコ。二十歳を少し出た小柄な男で、椅子の上でもいつでも跳べる座り方をしている。
暖炉の前に、剣士のダリオ。大男で、夕方の五つから飲んでいる。いまは六杯目の麦酒を半分まで空けたところだ。
暖炉の反対側に、修道女のアガタ。灯火教会から月に一度、施療に来てくれる。白い手袋をはめた手で、ダリオの拳の擦り傷を見ていたところだった。
裏口の近くの床に、灰狼族が二人。どちらも灰色の毛並みで、背丈も肩幅もほとんど同じだ。組合の荷運びや夜番をして、中庭の厩の二階で寝起きしている。
そして、階段の下の暗がりに、蜥蜴人のザザ。組合の掃除番で、箒を抱えたまま壁の一部みたいにしゃがんでいる。年寄りで、言葉が少ない。
十一人。出口は二つ、どちらも閂。
ザザとは、暇な夜に石取りを打つ。白と黒の石を盤に置いて、囲んだ陣地の広さを競う遊びだ。騎士盤のほうが人間には人気がある。騎士盤の駒には王や騎士や僧といった名前と役があって、駒ごとに動き方が決まっている。石取りの石には名前がない。どの石も同じ顔をしている。意味を持つのは、並んだ形だけだ。ザザは石取りが強い。俺はたいてい負ける。
ついでに言えば、俺は今夜、六つの鐘で北の氷室へ氷を買いに出て、七つ半に背負って戻った。その間の店はルルに任せていた。六つから七つ半の錆び釘亭は、たいてい客がいない。冒険者は日が沈んでから腹を空かせて帰ってくる。今夜も戻ったとき、酒場にはルルと、隅のザザしかいなかった。
カウンターの端には、硝子の瓶がひとつ置いてある。赤蕪の汁で漬けた鶉の卵だ。俺が毎朝十二個漬けて、ここに出しておく。つまみに一個銅貨二枚。今夜はまだ一つも売れていない。売れるのはたいてい夜半を過ぎて、腹が減って財布の紐がゆるんだ連中にだ。今夜はどうやら、そういう夜になりそうもなかった。
*
「宝石ってのは、何です」と俺はバルタザールに訊いた。
「夜啼きの涙だ」バルタザールは紙切れを振った。「鶉の卵くらいの紅玉だとよ。夫人の化粧部屋から消えた。懸賞金は金貨三百枚」
酒場の何人かが息を呑んだ。金貨三百枚あれば、この店ごと買ってもお釣りが来る。
「見たことがあります」
アガタが静かに言った。ダリオの拳から顔を上げて、手袋の指を組んだ。
「春の祝福の日に、大聖堂で夫人が捧げ物をなさいました。わたしも手に取らせていただきました。人肌のように温かい石です。石が熱をためるのだそうです」
「温かい石ねえ」ダリオが麦酒をあおった。「女の手みてえな石だ」
「ダリオ」とアガタが言った。ダリオは首をすくめた。
「で、ギルドのメンバーらしいってのは、どこから出た話です」と俺は続けた。
「館の執事が隊に届け出た。夕方、館の裏庭に組合の荷運びがいたそうだ」バルタザールの目が、裏口の床に向いた。「灰色のな」
二人の灰狼は動かなかった。耳だけが、わずかに寝た。
「待ってください」と俺は言った。「荷運びなら、依頼で行ったんでしょう。組合が出した仕事で」
「依頼で行こうが何で行こうが、盗むやつは盗む」
「だったら、訊きゃいいじゃねえか」ニコが椅子の背にもたれて言った。「灰色は嘘をつけねえんだろ。お前ら、盗んだかって。一言で済む」
裏口の床の二人は、ニコを見た。
灰色は嘘をつけない。この街の人間なら、子どもでも知っている。灰狼族も蜥蜴人も、下の谷の連中はみんな「月影の戒め」を信じている。偽りを口にすれば、月がその者の影を奪い、群れにも谷にも戻れなくなる。だから連中は嘘を言わない。言えない。黙ることはできるし、はぐらかすことも、問いで返すこともできる。だが偽りは言わない。
「訊いてどうする」とバルタザールは言った。「灰色が何を言おうが、隊は灰色の言葉なんぞ帳面に書かん。この街じゃ、亜人の『いいえ』は一文にもならねえ」
それはたぶん、この夜バルタザールが言ったなかで、いちばん正直な言葉だった。誰も言い返さなかった。言い返せる人間は、この酒場に一人もいなかった。
この街の人間は、亜人が嘘をつけないことを知っている。知っているくせに、亜人に何かを訊くとき、訊き方を工夫しない。どうせ亜人だ、と思っているからだ。
「それに、どっちに訊く」とバルタザールは顎で床を示した。「館にいたのはどっちだ。お前ら、自分で分かるか」
酒場の何人かが、床の二人を見比べた。首をかしげた。ダリオは目を細めて、それから諦めて麦酒に戻った。
どちらも灰色の毛並みで、背丈も肩幅も同じだ。俺にも見分けがつかない。この街の人間は、同じ種族の亜人を一人一人見ない。灰狼族なら「灰色」、蜥蜴人なら「トカゲ」。二人いても一匹に見える。俺も偉そうなことは言えない。
「どっちだろうが同じことだ」とバルタザールは言った。「灰色は灰色だ」
「ルル」と俺は言った。「分かりますか」
ルルはカウンターの端で頬杖をついたまま、白い耳を少し傾けた。
「帰ってきたのはヴェイよ。首に白い毛があるほう。耳の欠けてるほうがシグ」ルルは不思議そうに首をかしげた。「……みんな、毎晩ここでスープを出してるあたしより、見てないのね」
酒場の何人かが、あらためて床の二人を見た。俺も見た。言われてみれば、片方の首の下に白い毛の房があり、もう片方の左耳の先が欠けている。毎晩、裏口で椀を渡している給仕なら、覚えもするのだろう。言われなければ、俺には一生見えなかった。
白い毛の房のあるほう、ヴェイが、ゆっくりうなずいた。
「僕は館にいた。依頼で、酒樽を運んだ」
それだけ言って、また黙った。嘘をつけない連中は、訊かれたことしか答えない。
「おい、バニー」バルタザールがルルのほうを向いた。「お前は夕方ずっと店番だったな。ほかに何か見たか」
「あら? それ、あたしに訊くの?」
「お前以外に誰に訊くんだ」
「マスター、組合長さんにお酒は? 怒鳴ると喉が渇くでしょ」
バルタザールは鼻を鳴らした。
「いらん。その安っぽい付け耳を揺らしてる暇があったら、ほかの客の顔でも覚えとけ」
ルルは耳のことには何も言わずに、にっこり笑って、空いた杯を下げに行った。




