第6章 石取りの盤(後編)
「七つの鐘に、灰色の手が、箒の部屋から温かいものを持って出た。ザザがそう見た。ザザは手しか見ていない。どちらの灰色かは分からない」
「首に白い毛の灰色は、七つには中庭の井戸で、樽の輪で擦りむいた腕を洗っていた。本人がそう言った。灰色は嘘をつけない。石は持ち出していない、とも言った」
「七つの灰色の手は、首に白い毛の灰色の手ではありません」
俺は、裏口の床を見た。
「灰色は、二人いるんです。隊長。この街の人間は、灰色を二人並べても、一匹に見る。だから今夜、館にいた灰色と、七つの灰色の手が、同じ一匹の話として、ずっと一つの盤に並んでいた。館にいた灰色が、盗み、隠し、持ち出した。そういう一本の筋に見えた。二人に分けると、筋は二本になる。館にいた灰色は、囮として館へやられ、屋根の影を見上げていただけ。七つの灰色は、館には行っていない。組合長が階段下に隠した石を、七つに持ち出しただけ」
酒場が、静かになった。
館にいた灰色と、七つの灰色。この夜、俺たちはずっと、二つの石を一つだと思って見ていた。名前を剥がしたら、石は二つあった。
隊長は、裏口の床の、耳の欠けた灰色を見た。
初めて、その灰色だけを見た。
「お前か」と隊長は言った。「七つに、階段下から石を持ち出したのは」
耳の欠けた灰色は、立ち上がった。
「僕だ」
「石を、いま持っているか」
「持っていない」
「谷の仲間に渡したか」
「渡していない」
「では、どこにある」
耳の欠けた灰色は、答えなかった。隊長の目を見たまま、口を閉じていた。嘘をつけない者は、言えないことがあると、黙るしかない。
「誰に渡した」
灰色は、黙っていた。
隊長は長いこと、その灰色を見ていた。それから、ゆっくり俺のほうを向いた。
「酒場番。お前はどう見る。石の在りかに、心当たりは」
俺は、カウンターの端を見なかった。瓶も、ルルも、見なかった。黒板を見ていた。七つの行の、その先には、何も書いていない。
ザザは言った。七つの灰色の手は、箒を二本どけて、箱の蓋を一度鳴らしただけだった。階段の下には古い帳簿箱がいくつも積んである。どの箱かを知らなければ、一つずつ開けて探すしかない。灰色の手は、探さなかった。いちばん上の箱だと、はじめから知っていた。
知っていたのは、箱に入れた人間と、それを聞いた誰かだ。バルタザールの部屋は、この酒場の真上にある。床板が薄くて、上で椅子を引く音まで下に響く。
七つの錆び釘亭にいたのは、ルルと、隅のザザだけだった。俺は六つから七つ半まで、氷を買いに出ていた。
「ありませんね」と俺は言った。
俺は組合を抜けた人間で、誓約に縛られない。
隊長は、俺の顔をしばらく見ていた。何かを量る目だった。量って、量るのをやめた目だった。
「そうか」と隊長は言った。
階段の下の壁ぎわで、ザザが俺の足もとを見ていた。蜥蜴人は、人を足で覚える。温かいものも見える。この部屋には、温かいものが多すぎる。人も、火も、灯も。ザザは何も言わなかった。訊かれていなかったからだ。
ルルは、カウンターの端で頬杖をついたまま、動かなかった。白い耳は、まっすぐ立っていた。耳の欠けた灰色は、隊長の前に立ったまま、黙っていた。
石取りの盤の上で、名前のない石が一つ、どこにも置かれないまま、宙に浮いていた。宙に浮いているように見えるだけだ。盤の外に置いてある石は、盤の上の誰にも取れない。
*
隊長は立ち上がって、外套の裾を払った。
「バルタザール・グロック。盗みを仕組んだ罪で連れていく。盗賊ニコ、盗んだ罪で。賢者エルノ、偽りの証言で。魔法使いイゾルデも、偽りの証言で。剣士ダリオは、隊員の盾を叩いた罪で……」隊長はダリオを見て、ため息をついた。「……いい。放り出せ」
隊員たちが動いた。バルタザールは両腕を掴まれて、階段の三段目から引きずり下ろされた。
「俺は組合長だぞ」とバルタザールは言った。「参事会にも顔が利く。石もないのに、何の証拠で」
「紙と、トカゲと、お前の姪だ」と隊長は言った。「石がないのは、お前の運が悪かっただけだ」
ニコは自分から両手を差し出した。エルノは立ち上がって、焦げた袖口を一度だけ見て、黙って隊員に腕を取らせた。イゾルデは帳面を卓に置いて、置いたまま、手を離さなかった。隊員が一本ずつ、その指をはがした。
「夫人には、石は行方知れずと報告する」と隊長は言った。「懸賞金の話も、それで終わりだ。三百枚は、誰の懐にも入らない」
隊長はそう言って、裏口の床を見た。
「それから、掟だ」
灰色の二人が、顔を上げた。
「石は出なかった。館で起きた罪に、亜人が関わった。館にいた灰色がいて、石を持ち出した灰色がいる。どちらも灰色だ。灰壁の掟どおり、灰色を一匹、開門とともに北門から出す」
「待ってください」とアガタが立ち上がった。「館にいた方は、囮にされただけです。石を持ち出した方は……」
「修道女」隊長は言った。「掟は、罪を量らない。関わったかどうかだけを量る。どちらも関わった。一匹出せば、参事会は黙る」
アガタは、座らなかった。立ったまま、手袋の指を組んでいた。
首に白い毛のある灰色が、木彫りの狼を床に置いて、立ち上がろうとした。
その肩を、耳の欠けた灰色が押さえた。
「僕が出ていく」
耳の欠けた灰色は、そう言って、一歩前に出た。
「隊長、館にいたのは」と首に白い毛の灰色が言いかけた。
「チビたちがいるだろ」
耳の欠けた灰色は、振り向かずに言った。首に白い毛の灰色は、口を開けたまま、止まった。言いかけた言葉の続きは、嘘ではなかった。本当のことだった。本当のことを言えば、門の外へ出るのは自分になる。首に白い毛の灰色は、床の木彫りの狼を見た。耳の噛まれた、二つの狼を。
それから、口を閉じた。嘘をつけない者は、言わないことを選ぶしかない。
「どっちでもいい」と隊長は言った。「灰色が一匹、門を出れば、掟は済む」
隊長は、耳の欠けた灰色の前に立った。
「お前は、館にいた灰色か」
「出ていくのは、僕だ」
「館にいたのか、と訊いている」
「出ていくのは、僕だ」
隊長は、それ以上は訊かなかった。訊いても同じ答えが返ってくることを、隊長は知っていた。そして、どちらの答えでも、隊長にとっては同じことだった。
俺は、止めなかった。
止める言葉を、俺はいくつも知っていた。館にいたのは首に白い毛の灰色で、耳の欠けた灰色は館に行っていない。俺がそう言えば、隊長は少しは迷ったかもしれない。だが、迷ったところで、石を持ち出したのは耳の欠けた灰色だ。掟は罪を量らない。どちらかが出る。どちらが出るかを決めたのは、灰色だった。
俺は黒板の白墨を置いて、手についた粉を布で拭った。
*
カウンターの端で、ルルの白い耳が、音もなく伏せた。
二本とも。根もとから、ゆっくりと、頭の後ろへ倒れていった。ランプの光の中で、白い毛が波のように寝た。
付け耳は、伏せない。
布と綿でできた耳は、持ち主が泣いても笑っても、同じ角度で立っている。三年前、この店に来た夜、腹を空かせたあの娘の耳も、いまと同じように伏せていた。俺が温めた豆のスープを出すと、耳は少しずつ起き上がった。人間の娘の耳のあるべき場所には、亜麻色の髪が長く垂れていた。その下に、人間の耳はなかった。
ルルは兎人族だ。
この街の人間が一人一人を見ない亜人の、そのまた一人だ。嘘をつけない、月影の戒めを信じる谷の者だ。俺は黒い胴着と網の靴下と白いカフスを選んで、この娘に着せた。頭の上の白い耳は、酒場の制服の飾りにしか見えない。腰の白い丸い尾も。この街の人間は、見たいものしか見ない。
三年前から、この街で、それを知っている人間は俺だけだ。
ルルは、伏せた耳のまま、耳の欠けた灰色を見ていた。灰色も、ルルを見ていた。二人とも、何も言わなかった。嘘をつけない者同士は、言わないことで話すことがある。
隊員たちが、バルタザールとニコとエルノとイゾルデを、壊れた表の扉から外へ連れ出していった。外の広場は、もう松明がいらないくらいに白み始めていた。
東の空が、城壁の上で薄くなっていた。
五つ半の鐘が、一つだけ鳴った。
開門まで、あと半刻。




