第5章 石はどこだ(後編)
「二度目は、いつです」と俺はザザに訊いた。
「鐘が七つ鳴ったとき」
「誰が」
「灰色の手」
酒場が、今度はざわついた。
「灰色の手が、箒をどけた。一本、二本。箱の蓋が鳴った。灰色の手が、温かいものを持って出た。小さくて、温かくて、明るいもの」
「灰色の、どちらです」
「手しか見ていない」ザザは言った。「私は低いところにいた。箒の部屋の口から見えるのは、足と手だけだ。灰色の手は、灰色の手だった」
「ほら見ろ!」
バルタザールの声が、梁を震わせた。三段目から一段下りて、裏口の床を指さした。
「灰色だ! 石を最後に持ってったのは灰色だ! トカゲが見たんだ、嘘をつけないトカゲがな! 俺が何をしてようが、石を持ってったのは灰色の手だ!」
隊長は、裏口の床の二人を見た。二人は動かなかった。耳の欠けたほうが、隣の首の白い毛のほうの肩に、まだ手を置いていた。
「組合長の言うとおりだな」と隊長は言った。「組合長が何を仕組んでいようが、それはそれで裁く。だが、石を最後に動かしたのが灰色の手なら、石の行き先を知っているのは灰色だ。館にいたのも灰色。石を持ち出したのも灰色。灰色は二匹いるが、この街では同じことだ」
同じことだ、と隊長は言った。この街の人間なら、誰でもそう言う。
首に白い毛のある灰色が、目を開けた。
「僕は、七つには井戸にいた」と灰色は言った。「石は、持ち出していない」
「聞いた」と隊長は言った。「さっきも聞いた。お前は嘘をつけない。だから、お前は持ち出していないんだろう」
隊長はそれ以上、何も訊かなかった。隣の、耳の欠けた灰色には、何も訊かなかった。灰色は二匹いるが、この街では同じことだ。同じことだから、二匹目に訊く必要はない。
耳の欠けた灰色は、隣の肩に手を置いたまま、黙っていた。訊かれないことは、言わなくていい。嘘をつけない者にとって、それはたぶん、この夜いちばんの救いだった。
「隊長さん」アガタが立ち上がった。手袋をはめ直しながら。「さっき、厩から出てきた木彫りの狼を、ご覧になりましたか。子どもが握って遊ぶものです。耳が噛まれて丸くなっていました。あの方には、谷に小さなお子さんがいらっしゃるのでしょう」
「修道女」と隊長は言った。「この街の掟に、子どもの数の欄はない」
アガタは、何か言おうとして、やめた。手袋の指を組んで、また座った。灯の前に偽りなし。偽りのない者は、言っても変わらないことを、言わずにいることがある。
「ザザ」と隊長は言った。「いま、その温かいものは見えるか。この部屋に」
ザザは首をめぐらせた。酒場の端から端まで、ゆっくりと。
「この部屋には、温かいものが多すぎる」とザザは言った。「人も、火も、灯も。隊の人間の松明も。小さいものは、大きい温かさの中では見えない」
隊長は、ため息をついた。
盤面は、また振り出しに戻った。いや、振り出しより悪くなった。灰色が館にいて、灰色が石を持ち出した。嘘をつけない者の言葉が、二つとも灰色を指している。
*
俺はカウンターに戻って、黒板を拭いた。
さっきまでの表を消して、新しく線を引いた。今度は名前の欄ではなく、刻の欄を左に立てた。
六つ。
六つ半。
七つ。
七つ半。
六つの横に書いた。館の裏庭に、首に白い毛の灰色。屋根の上に影。天窓。酒場にルル。俺は不在。
六つ半の横に書いた。裏の路地に菫の男。太い靴が箒の部屋へ、温かいものを持って入り、持たずに出る。首に白い毛の灰色が表の長椅子の前を走る。長は二階にいない。
七つの横に書いた。灰色の手が箒の部屋から温かいものを持って出る。首に白い毛の灰色は、中庭の井戸。黒猫の尾が戸を開ける。
七つ半の横に書いた。俺が氷を背負って戻る。酒場にルルとザザ。
書き終えて、白墨を置いた。
七つの行を、俺は長いこと見ていた。
酒場の誰かが黒板を覗き込んでも、ただの刻の表にしか見えないはずだ。見られて困るものは書いていない。見られて困らないものしか、書いていない。
*
ランプの油を足そうとして、俺はカウンターの端の瓶に手をかけた。瓶をどけないと、油壺に手が届かない。
瓶は、ほんの少しぬるかった。
暖炉からは遠い。ランプの熱も、ここまでは届かない。赤蕪の汁は、夜が更けるほど冷えるものだ。朝漬けて出した瓶が、夜半過ぎにぬるいはずがない。
俺は瓶を持ち上げたまま、ランプの光にかざした。赤い汁の中で、赤い卵が沈んでいる。
数えた。
十三個あった。
俺は、毎朝十二個漬ける。今夜は一つも売れていない。
もう一度数えた。十三個あった。瓶の底のほうの一つだけが、ほかの卵より少しだけ小さくて、少しだけ重たそうに沈んでいた。赤蕪の汁に染まって、ほかの卵と同じ赤に見えた。
俺は何も言わずに、瓶の蓋を閉め直して、元の場所に置いた。油壺を取って、ランプに油を足した。火が少し大きくなった。
カウンターの向こうで、ルルが頬杖をついていた。俺のほうを見ていなかった。白い耳だけが、こちらを向いていた。
金貨三百枚、と俺は思った。この店ごと買って、お釣りが来る。俺はその数を、頭の中で一度だけ数えた。一度数えれば、それで十分だった。
*
「隊長」と俺は言った。「掟で灰色を門の外へ出すとして、どの門から出します」
「北門だ」隊長は腕を組んだまま言った。「追放は昔から北門と決まってる。北街道を荒れ野へ」
北街道は、昔の俺の庭だった。組合にいたころ、斥候として何十回も歩いた。三つ目の一里塚を過ぎると、冬のあいだは隊商も通らない。道の両側は赤い棘草の荒れ野で、身を隠す場所はいくらでもある。追われる者にとっても。追う者にとっても。
「朝六つの開門で出すんですね」
「そうだ。それまでに石が出なければな」
三つの鐘が鳴った。開門まで、あと三刻。
バルタザールは階段の三段目で、また膝の埃を払っていた。イゾルデは帳面に顔を埋めていた。ニコは手袋を取り上げられた指を、所在なげに組んだり開いたりしていた。エルノは袖口の焦げを見ていた。ダリオは舟を漕いでいた。アガタは、声を出さずに祈っていた。
裏口の床で、首に白い毛のある灰色が、木彫りの狼を二つ胸に抱えて、目を閉じていた。耳の欠けた灰色は、目を開けて、カウンターのほうを見ていた。俺ではなく、ルルを見ていた。
ルルは、瓶を見ていなかった。
俺は黒板の前に立って、刻の表を眺めた。騎士盤の駒には名前がある。石取りの石には名前がない。この夜、この街の人間たちは、ずっと騎士盤を指しているつもりでいた。王と、僧と、騎士と、兵と。だが、盤の上に並んでいるのは、名前のない石だった。どれも同じ顔をした、白と黒の石。
石はもう、盤の上に全部出ている。あとは、並べ方だけだ。
「さて」と俺は言った。




