第2話
その言葉に、私はますます不安になるのだった。
父上から悠蓮殿下のお話を聞いて数日が過ぎた。
けれど私の心は少しも落ち着かない。
庭の山吹は変わらず咲いている。
空も青い。
風も穏やかだ。
それなのに、気が付けば悠蓮殿下のことを考えてしまう。
病弱な皇子。
長くは生きられぬと噂されるお方。
後ろ盾もなく、味方も少ないお方。
そんな方がなぜ東宮になられるのか。
父上に聞いても、
「帝のお考えだ」
としか返ってこない。
乳母に聞いても、
「そのようなことを姫様が気にするものではございません」
と笑われてしまった。
結局、誰も教えてくれないのである。
「姉上はまだですか?」
後ろから声がした。
私は振り返りもせず答える。
「まだよ」
「本当に?」
「本当です」
「あとどれくらいでしょう」
私はゆっくり振り返った。
白雪が期待に満ちた顔でこちらを見ている。
「白雪」
「はい」
「それを私に聞かれても困るのだけれど」
白雪は首を傾げた。
本気で不思議そうな顔だった。
私は思わず額を押さえる。
朝からこれで五回目である。
「そんなに姉上に会いたいの?」
「もちろんです」
即答だった。
「久しぶりですもの」
嬉しそうに笑う。
その顔を見ると怒る気も失せてしまう。
白雪は昔からそうだ。
嬉しいことも悲しいことも全部顔に出る。
駆け引きなど到底できない。
だから皆に愛される。
そして皆に守られる。
私はふと父上の言葉を思い出した。
『もしお前が断れば白雪になる』
胸の奥が重くなる。
やはり無理だ。
白雪には無理である。
東宮御所など、この子が生きていける場所ではない。
「紫鳳姉上?」
「何でもないわ」
そう答えた時だった。
屋敷の表が急に騒がしくなった。
女房たちの声が聞こえる。
誰かが走っている足音もする。
白雪がぱっと立ち上がった。
「姉上!」
飛び出そうとして、
「姫様!」
乳母に止められる。
「お部屋から出てはなりません」
「でも!」
「でもではありません」
白雪は唇を尖らせた。
その様子があまりにも子供らしくて、私は思わず笑ってしまう。
やがて御簾の向こうに人影が見えた。
女房たちを従え、ゆっくりと歩いてくる。
見慣れた姿だった。
薄紅の唐衣。
優しい微笑み。
「宵羽姉上!」
白雪の声が弾む。
久方ぶりに見る姉は相変わらず美しかった。
けれど。
私はわずかに眉をひそめた。
どこか顔色が優れない。
疲れているようにも見える。
白雪は気付いていない。
母上だけが静かに姉上を見つめていた。
「宵羽」
静かな声だった。
姉上も一瞬だけ目を伏せる。
そのやり取りを見た瞬間、胸の奥がざわりとした。
何かある。
そう思った。
次の瞬間。
母上は乳母へ視線を向けた。
「侍医をお呼びなさい」
短い一言だった。
部屋の空気が変わる。
私は白雪と顔を見合わせた。
何が起きているのか分からない。
だが母上の瞳は、不安ではなく、どこか期待に満ちているように見えた。
◇
しばらくして侍医が到着した。
年配の侍医は母上へ深く頭を下げると、静かに宵羽姉上の前へ進み出る。
「失礼いたします」
姉上は素直に頷いた。
白雪は心配そうな顔でその様子を見守っている。
私はというと、何が起きているのか分からず母上の横に座っていた。
診察はそれほど長くはなかった。
侍医は姉上の脈を取り、顔色を確かめ、いくつか質問をしている。
やがて。
侍医は穏やかな笑みを浮かべて母上へ向き直った。
「おめでとうございます」
部屋の空気がぴたりと止まる。
母上の瞳が大きく見開かれた。
「それでは」
「はい」
侍医は深く頭を下げた。
「おそらくご懐妊にございます」
その瞬間だった。
白雪が小さく息を呑む。
母上は口元を押さえた。
そして。
「宵羽……!」
感情を露わにして姉上の手を取った。
姉上は少し困ったように笑っている。
「まだ確定ではございません」
「それでもです」
母上の声は震えていた。
私はようやく状況を理解する。
明澄親王の御子。
左大臣家にとって初めての孫。
それがどれほど大きな意味を持つのか、私でも分かった。
「姉上!」
白雪が嬉しそうに姉上へ抱きついた。
「おめでとうございます!」
「ありがとう」
宵羽姉上は白雪の頭を優しく撫でた。
その時。
廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
誰よりも早く反応したのは母上だった。
「まさか」
次の瞬間。
御簾の向こうから聞き慣れた声が響く。
「本当か!」
父上である。
左大臣ともあろう人が、ほとんど駆け込むように現れた。
私は思わず目を丸くした。
こんな父上を見たことがない。
「実房様」
母上が呆れたような声を出す。
だが父上は構わなかった。
「宵羽!」
「はい」
「本当なのか」
姉上は少しだけ頬を染める。
「侍医によれば」
その返事だけで十分だった。
父上は天を仰いだ。
そして大きく息を吐く。
「そうか……」
それだけ言って黙り込む。
だが顔は隠しようもなく緩んでいた。
都一の権力者も、娘のこととなればただの父親らしい。
私は思わず笑いそうになる。
部屋は祝いの言葉で満ちていた。
誰もが笑顔だった。
誰もが喜んでいる。
けれど。
その中で一人だけ。
宵羽姉上だけが、どこか静かな顔をしていた。
嬉しそうではある。
だが浮かれてはいない。
まるで何かを考えているように。
私はその表情が少しだけ気になった。
夜になったら聞いてみよう。
そう思いながら、私は姉上の横顔を見つめるのだった。




