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第1話 望まれぬ東宮

紫鳳(しほう)よ、そなたは東宮に望まれることとなった」


 御簾の向こうから聞こえた父の声に、私は思わず顔をしかめた。

 やはり来た。




 そう思った。

 だからこそ私は、父上に呼ばれたにもかかわらず自室には向かわず、母上の部屋へ逃げ込んだのだ。




 春も半ばを過ぎた昼下がり。

 庭の山吹が鮮やかな黄色を咲かせ、池の水面には若葉が映っている。

 母上の御殿は香木の香りが穏やかに漂い、いつ訪れても心が落ち着く場所だった。


 そのはずなのに、今日は落ち着かなかった。父上が珍しく足早にやって来たからだ。


 左大臣・藤原実房(ふじわらのさねふさ)


 普段は感情を顔に出さぬ人である。

 その父上が、明らかに興奮していた。




「それが嫌なので、父上に呼ばれましたが母上の部屋に参りました」




 私はわざと不機嫌そうに答えた。

 父上は少しも動じない。

 むしろ嬉しそうですらある。


 その様子を見て、ますます嫌な予感がした。


「大体、姉上はすでに明澄(めいちょう)様のもとへ上がっておられます」




 宵羽(よいは)姉上はすでに明澄親王の妃である。


 都で一番の権威を持っている、左大臣家の娘として申し分ない縁談だった。

 私は当然、大臣の有力な子息の所へ嫁ぐか、左大臣家の息のかかった所へ行くのだと思っていた。


「なぜ、わたくしが明澄様のところへ? 姉上とは敵対関係になるではありませんか」


 父上は一瞬だけ目を細めた。

 だがすぐに首を横に振る。




「紫鳳」

「はい」

「まず一つ、お前は思い違いをしておる」

「東宮にお立ちになるのは、明澄殿下ではない」


 私は思わず父上を見返した。

 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


「待ってください父上。東宮にお立ちになるのは明澄様なのではないのですか?」


 思わず身を乗り出していた。

 庭では山吹が風に揺れている。

 先ほどまで穏やかだった春の景色が、急に遠いもののように感じられた。


 都の誰もがそう思っている。

 明澄様こそ次の東宮だと。

 それは噂でも予想でもない。


 当たり前のことだった。

 だからこそ父上の言葉が理解できない。

 私は御簾の向こうを見つめた。


 父上は静かに頷く。



「通常であればそう思うな」

「私だけではありません。都中がそう思っております」



 父上は苦笑した。

 珍しい表情だった。


「私も昨日まではそう思っていた」

「では?」

「だが違った」



 静かな声だった。

 その一言だけで、部屋の空気が変わり、庭で鳴いていた鶯うぐいすの声が遠く感じた。


「私や周囲の者も、明澄殿下こそ東宮へと思っていた。しかし帝のお考えで、悠蓮(ゆうれん)殿下に白羽の矢が立ったのだ」


 私は言葉を失った。

 悠蓮親王。

 もちろん名前は知っている。

 知らぬ者などいない、それでも。




「失礼ながら、その……病弱な……あの悠蓮様ですか?」

「そうだ」




 思わず声が小さくなる。

 悠蓮親王は皇子でありながら表舞台へほとんど出てこない。


 病弱。

 儚い。

 長くは生きられぬ。


 そんな噂ばかりを耳にしていた。

 貴族たちは皆、口には出さない。


 だが誰もが知っている。

 後ろ盾も弱く、味方も少ない皇子だと。

 父上は少し身を乗り出した。


「そして病弱で誰も寄り付かなかった悠蓮殿下に、葵様がご心配されてな」




 葵皇后。

 後宮の誰も逆らえぬ御方。

 その名が出た途端、部屋にいた女房たちの姿勢がわずかに正された。


「私に直々に話が来たのだ」


 父上の声はどこか誇らしげだった。

 なるほど。

 父上が上機嫌な理由が分かった。

 左大臣家の当主だけに与えられた極秘の話。

 それを任されたことが嬉しくてたまらないのだ。


 ちらりと母上を見る。

 母上もどこか興奮している。

 いつもは私の味方をしてくれる乳母まで目を輝かせていた。


 どうやら味方はいないらしい。

 私は心の中でため息をついた。


「悠蓮殿下には他にも姫候補がおられたと聞いております」


 父上は頷いた。


「その通りだ」

「乳母や女房たちから聞いております」

「うむ」

「それなのになぜ私なのです?」


 すると父上は少し考えるような顔をした。


「紫鳳」

「はい」

「お前は賢い」


 嫌な予感しかしない。

 父上がこういう前置きをするときは、大抵ろくな話ではない。


「そして気が強い」


 やっぱり。


「白雪には難しい」


 私は黙った。

 妹の顔が浮かぶ。

 白雪は優しい。

 優しいが、とても内気だ。

 人前へ出ることも苦手で、争い事などなおさら嫌う。


「もしお前が断れば白雪になる」


 父上はさらりと言った。

 卑怯だ。

 本当に卑怯だと思う。

 私はぎゅっと袖を握った。

 白雪が東宮御所で生きていけるとは思えない。



 宵羽姉上ですら苦労しているのだから。

 姉上は今でも、頻繁に実家へ帰ってくる。

 本来なら許されぬことだ。


 親王に嫁いだのに実家へ戻るなど前代未聞である。

 けれど姉上は帰ってくる。


 七日に一度。

 御勤めの翌日には必ず。

 そして帰ってくるたびに、どこか疲れた顔をしている。


 明澄親王はお優しい方だ。

 それは間違いない。

 それでもという場所は、人を疲れさせる。



 見えぬ視線。

 終わらぬ噂。

 女たちの駆け引き。

 後ろ盾の重さ。


 誰かの失敗が誰かの出世になる世界。

 私はそんな場所へ行きたいと思ったことは一度もなかった。

 庭を渡る風が御簾を揺らした。


 どこからか沈香の香りが流れてくる。

 春なのに胸が重い。


「父上」

「なんだ」

「悠蓮殿下はどのようなお方なのですか」


 父上は少しだけ黙って、嬉しそうな顔を向けてきた。

 そして静かに答える。


「それを知るためにも、お前に行ってほしいのだ」


 その言葉に、私はますます不安になるのだった……。

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