3話
夜になった。
昼間の賑わいが嘘のように屋敷は静まり返っている。
それでも今日はどこか空気が違った。
女房たちの足取りも軽い。
廊下を行き交う声にも明るさがあった。
宵羽姉上の懐妊。
左大臣家にとってこれ以上ない吉報なのだから当然である。
私は文机の前に座りながら、ふと昼間の姉上の顔を思い出した。
皆が喜んでいた。
姉上も嬉しそうだった。
けれど。
どこか静かだった。
まるで一人だけ別のことを考えているように。
気になって仕方がない。
私は立ち上がった。
乳母に見つかる前に部屋を抜け出し、姉上のいる客殿へ向かう。
御簾の向こうにはまだ灯りが見えていた。
「姉上」
「入ってらっしゃい」
声が返ってくる。
やはり起きていた。
私は中へ入った。
姉上は几帳のそばに座り、月を眺めていた。
昼間より顔色は良い。
だが疲れは残っているようだった。
「眠れないの?」
姉上が笑う。
「姉上こそ」
「そうね」
否定しなかった。
私は姉上の隣へ腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。
庭では虫の音が聞こえていた。
「おめでとうございます」
ようやくそう言うと、姉上は少し照れたように笑った。
「ありがとう」
「父上が大変喜んでおられました」
「ええ」
「母上も」
「ええ」
「白雪は泣いていました」
姉上が吹き出した。
「あの子らしいわね」
その笑顔を見て少し安心する。
けれどやはり気になる。
私は思い切って尋ねた。
「姉上」
「なに?」
「嬉しくないのですか?」
姉上が目を丸くした。
「どうしてそう思うの?」
「昼間、皆が喜んでいる中で姉上だけが静かでした」
姉上は少しだけ黙った。
そして夜空を見上げる。
「嬉しいわ」
静かな声だった。
「とても嬉しい」
それは嘘ではないと分かった。
けれど。
「ただ」
姉上は続ける。
「子を授かったからといって何かが終わるわけではないもの」
私は言葉を失った。
姉上はゆっくり笑う。
「紫鳳にはまだ難しいかもしれないわね」
「そんな言い方はずるいです」
私がむくれると姉上は声を立てて笑った。
昔からこうだ。
姉上は都合が悪くなると私を子供扱いする。
「それより」
姉上がこちらを見た。
「東宮のお話でしょう?」
思わず肩が跳ねる。
「なぜ分かったのですか」
「顔に書いてあるもの」
そんなはずはない。
そう思ったが、姉上の顔を見ると反論する気も失せた。
「父上から聞いたのね」
「はい」
「驚いたでしょう」
「今でも信じられません」
私は正直に答えた。
「東宮にお立ちになるのが悠蓮殿下だなんて」
「そうね」
「姉上も驚かれましたか?」
姉上は少し考えた。
そして首を横に振る。
「いいえ」
「え?」
「私は驚かなかったわ」
予想外の答えだった。
私は思わず身を乗り出す。
「どうしてです?」
「だって明澄様も帝も、ずっとそう仰っていたもの」
私は息を呑んだ。
「明澄様が?」
「ええ」
姉上は当たり前のように頷く。
「兄宮様が東宮になられるべきだと」
私は言葉を失った。
都中が明澄親王こそ東宮だと思っている。
父上もそうだった。
私もそうだった。
なのに当人だけが違ったのだ。
「紫鳳」
「はい」
姉上は少し楽しそうに笑った。
「悠蓮殿下はね」
そこで言葉を切る。
「噂とは少し違うお方よ」
夜風が御簾を揺らした。
私は思わず姉上を見つめる。
その先の言葉を聞きたくて仕方がなかった。
「噂とは違う方ですか」
私は思わず姉上を見つめる。
「どう違うのですか」
姉上は少し考え込むように月を見上げた。
「そうね……」
そして小さく笑う。
「まず、病弱なのは本当よ」
私は肩を落とした。
「やはり」
「でも、紫鳳が思っているようなお方ではないわ」
「どういうことです?」
「皆、病弱と聞くと弱々しい方を想像するでしょう?」
私は頷いた。
実際、私もそうだ。
病のために人前へ出られず、風が吹けば倒れてしまいそうな方を思い浮かべていた。
「明澄様のお話では違うの」
姉上は静かに続ける。
「兄宮様はとても我慢強いお方なのだそうよ」
「我慢強い?」
「ええ」
姉上は頷いた。
「幼い頃からお身体が弱かったそうだけれど、一度も弱音を吐かれたことがないのだとか」
私は少し驚いた。
それは想像していた姿と違う。
「明澄様は兄宮様のお話をよくなさるのですか」
そう尋ねると、姉上はくすりと笑った。
「ええ」
「そんなに?」
「そんなになの」
即答だった。
私は思わず吹き出してしまう。
「兄宮様は学問がお出来になって」
姉上は指を一本折る。
「兄宮様は和歌がお上手で」
もう一本。
「兄宮様は書も美しくて」
さらに一本。
「兄宮様は――」
「もう分かりました」
私が慌てて止めると、姉上は声を立てて笑った。
「本当にそんな感じなのよ」
「明澄様らしくありません」
「そうかしら?」
「もっとご自身のお話をなさる方かと」
「まさか」
姉上は首を横に振った。
「明澄様はそういう方ではないわ」
その声音はとても優しかった。
私は少しだけ安心する。
姉上は幸せなのだ。
昼間の表情を見て少し心配していたけれど、それだけはよく分かった。
「では」
私は前から気になっていたことを尋ねた。
「姉上は悠蓮殿下にお会いしたことがあるのですか」
姉上は少しだけ考えた。
「数えるほどしかないわ」
「どのようなお方でした?」
姉上はすぐには答えなかった。
まるで適切な言葉を探しているようだった。
「綺麗な方」
「え?」
思わず聞き返してしまう。
男の方に使う言葉ではないと思ったからだ。
姉上は苦笑した。
「変な言い方ね」
「少し」
「でもそうとしか言えないのよ」
月明かりが庭を照らしている。
姉上はその光を見ながら続けた。
「初めてお見かけした時、月の光みたいな方だと思ったわ」
私は黙った。
ますます想像ができない。
病弱な皇子。
噂の少ない皇子。
そして月の光みたいな人。
どれも同じ人物とは思えなかった。
「紫鳳」
「はい」
姉上が私の手を取った。
温かい手だった。
「怖い?」
私は返事に困った。
本当は怖い。
東宮御所も。
会ったことのない悠蓮殿下も。
その先の未来も。
全部。
けれど今さら弱音を吐くのも悔しかった。
すると姉上は私の顔を見て微笑む。
「顔に書いてあるわ」
「姉上」
「大丈夫よ」
その言葉は不思議なくらい穏やかだった。
「最初から平気な人なんていないもの」
姉上は私の手を軽く握る。
「私も怖かったわ」
「姉上も?」
「もちろん」
私は少し驚いた。
宵羽姉上は何でもそつなくこなしてしまう人だと思っていたからだ。
「でもね」
姉上は笑った。
「案外なんとかなるものよ」
その言葉に少しだけ肩の力が抜けた。
虫の音が静かに響いている。
いつの間にか胸の重さも少しだけ軽くなっていた。
「それに」
姉上はいたずらっぽく微笑んだ。
「きっと紫鳳は気に入られると思うわ」
「誰にです?」
「悠蓮殿下に」
私は思わず顔をしかめた。
「まだお会いしてもおりません」
「だからよ」
姉上は楽しそうだった。
何か知っている顔で。
私はますます納得がいかない。
けれど。
その夜は不思議と、悠蓮殿下への恐れよりも好奇心の方が少しだけ勝っていた。
月は静かに庭を照らしている。
私はその光を見上げながら、まだ見ぬ東宮の姿を思い浮かべるのだった。




