第5話 文字を画面に
俺たちは、ほとんど全力疾走で出版社へ戻った。
さっきまで打ちのめされて、公園のベンチで地面を見つめていたはずなのに。
今は違う。
足が勝手に前へ出る。
息が切れても、胸の奥だけは妙に熱かった。
面白いところもありました。
鬼島という編集者が電話で言った、その一言が、何度も頭の中で鳴っていた。
俺たちの原稿は、駄目だった。
絵は漫画に向いていない。
文字が多すぎる。
新人賞に出しても厳しい。
そう言われたばかりだ。
それでも。
全部が駄目だったわけじゃない。
それだけで、俺たちはもう一度走れた。
◇ ◇ ◇
第三会議室のドアを開けた時、俺と慧は揃って肩で息をしていた。
「はあ……はあ……」
膝に手をつきながら顔を上げる。
会議室の奥。
机の向こう側に、一人の男が座っていた。
ぼさぼさの髪。
目の下に濃いクマ。
少し伸びた無精ひげ。
しわの寄ったパーカーの上から、適当に社員証をぶら下げている。
片手には、紙コップのコーヒー。
どう見ても、さっきの冷たい編集者とは違うタイプだった。
「お、早かったですね」
男は俺たちを見ると、少しだけ笑った。
「まあ、座ってください。まずは息を整えてからでいいので」
「あ、ありがとうございます……」
俺たちは椅子を引き、向かい側に座った。
机の上には、俺たちの原稿が置かれていた。
さっきまで忘れ物だったはずのそれが、今はもう一度、俺たちの前に戻ってきている。
「改めまして」
男は紙コップを置き、軽く頭を下げた。
「『週刊少年ラッシュ』編集部の鬼島です。今年で入社二年目。まだまだ新人編集です」
「に、二年目……?」
慧が思わず声を漏らした。
俺もたぶん、同じような顔をしていたと思う。
目の前の鬼島さんは、どう見ても二年目の若手編集というより、三日くらい会社に泊まり込んだ中堅社員に見えた。
慧が口を開きかける。
「え、でも見た目が――」
「おい」
俺は机の下で、全力で慧の足を蹴った。
「痛っ」
「失礼なこと言うな」
「まだ言ってないだろ」
「言いかけてただろ」
鬼島さんは苦笑した。
「大丈夫です。よく言われます。編集部にいると、人間はだいたいこうなります」
怖いことを、さらっと言う。
鬼島さんはコーヒーを一口飲むと、表情を少しだけ変えた。
さっきまでの疲れた空気が薄くなる。
代わりに、原稿を見る目だけが鋭くなった。
「それで、原稿の話をしましょう」
俺と慧は同時に背筋を伸ばした。
「まず、さっき見てくれた編集者に言われたことは、かなり正しいです」
いきなりだった。
胸の奥が少し沈む。
「藤原くん」
「はい」
「絵は上手いです。高校生でここまで描けるのは、普通にすごい。相当描いてきたんでしょう」
「……はい」
褒められているはずなのに、素直に喜べなかった。
次に何を言われるのか、もう何となくわかっていたからだ。
「でも、漫画としては重い」
鬼島さんは原稿の一ページを開く。
「一コマ一コマに力が入りすぎています。全部を見せ場にしようとしている。だから、読者の視線が流れない」
鬼島さんの指が、コマからコマへと動く。
「漫画は、すべてのコマを全力で描けばいいわけじゃありません。流すコマ、止めるコマ、読ませるコマ、見せるコマ。その差でリズムを作るんです」
俺は無意識に拳を握っていた。
わかる。
わかってしまう。
俺は絵を描いていた。
でも、漫画を描けていたわけじゃなかった。
「必要なのは、減らすことです」
「減らす……」
「背景を抜く。線を減らす。表情に集中させる。読者の目がどこへ行くのかを考える。藤原くんは、描けるからこそ、描かない勇気を覚えた方がいい」
描かない勇気。
その言葉は、思っていた以上に重かった。
鬼島さんは、今度は慧の方を見た。
「神宮寺くん」
「はい」
「話は面白いです」
慧の目が、ほんの少しだけ開いた。
さっきまで落ち込んでいた顔に、火が戻る。
「本当ですか?」
「本当です。特に十五ページ目の見開き。主人公が初めて自分の弱さを認めるところ。あそこは、かなりいい」
十五ページ目。
俺たちが深夜まで揉めたページだ。
慧が長い独白を書いて、俺が「長い」と言って削って、二人で何度も言い合ったページ。
最後には、ほとんど表情と沈黙だけにした。
そこを見てくれた。
胸の奥が、少し熱くなる。
「ただし」
鬼島さんは続けた。
「文字が多い」
慧の表情が固まる。
「君はたぶん、頭の中で全部説明できてしまうタイプです。設定も、感情も、伏線も、台詞で整理しようとしている。でも漫画では、それを全部書くと重くなる」
「……はい」
「読者に伝えたいことを、全部言葉にしないでください。画面に任せる部分を作る。表情に任せる。沈黙に任せる。ページをめくらせる力は、説明の量じゃなくて、見せ方で生まれます」
慧は黙っていた。
けれど、いつものように反論はしなかった。
ただ膝の上で、自動鉛筆を握りしめている。
鬼島さんは原稿を閉じた。
「まとめると、君たちには武器があります」
俺と慧は、同時に顔を上げた。
「藤原くんの画面。神宮寺くんの物語。どちらも粗い。でも、ちゃんと熱がある」
熱。
その言葉に、胸の奥が少し震えた。
「だからこそ、このまま出して終わりにするのはもったいない」
「じゃあ……」
慧が身を乗り出す。
「直せば、いけますか?」
鬼島さんはすぐには答えなかった。
少しだけ考えたあと、苦笑する。
「この原稿をそのまま直すより、新しく作った方が早いと思います」
「新しく……」
「はい。四ヶ月後に新人賞があります。そこを狙いましょう」
四ヶ月後。
新人賞。
その言葉が、会議室の空気を変えた。
「今の君たちに必要なのは、完成原稿を増やすことではありません。まずはネームです。何を見せるのか。何を削るのか。どう読ませるのか。そこから作り直しましょう」
「ネームだけでいいんですか?」
俺が聞くと、鬼島さんは頷いた。
「通常の持ち込みなら完成原稿を見ることも多いです。でも、今の段階で毎回完成まで描いていたら、修正に時間がかかりすぎます。君たちはまず、ネームで勝負できる形を作るべきです」
ネーム。
文字と絵の間にあるもの。
漫画になる前の設計図。
俺は原稿を見る。
さっきまで失敗作に見えていた紙の束が、今は少し違って見えた。
これは終わりじゃない。
ここから作り直すための最初の失敗だ。
「やります」
気づけば、俺はそう言っていた。
慧も、すぐに続く。
「もちろんやります!」
鬼島さんは少しだけ笑った。
「いい返事だ」
そして、俺たちに名刺を差し出す。
「新しいネームができたら連絡してください。厳しく見ますよ」
「お願いします!」
俺たちは揃って頭を下げた。
◇ ◇ ◇
編集部を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
ビルの明かりが、夜の街に浮かんでいる。
さっきまでは、あの建物がただただ遠くて、冷たいものに見えていた。
でも今は違う。
まだ遠い。
とんでもなく遠い。
それでも、そこへ続く道の入口だけは、見えた気がした。
俺はポケットの中で、さっき受け取った名刺に触れた。
薄い紙一枚。
そこに書かれた名前と電話番号が、妙に重かった。
俺たちはまだ、漫画家でも何でもない。
原稿は駄目だった。
力も足りない。
直すべきところばかりだった。
けれど、完全に終わったわけじゃない。
むしろ、ようやく何を直せばいいのかを知った。
「腹減った」
隣で慧が、急に現実的なことを言った。
「今それかよ」
「いや、緊張しすぎて昼から何も食ってない」
「それは俺もだけど」
思わず笑ってしまった。
現実に殴られた。
でも、次の一手も渡された。
だったら、落ち込んだまま帰るわけにはいかない。
俺たちは駅前の明かりへ向かって歩き出した。
名刺の角が、ポケットの中で指先に当たる。
その小さな痛みが、次の勝負はもう始まっているのだと、俺に教えていた。




