第6話 尖った物語
駅前のファミレスは、夕飯時に入るには少し早かったせいか、思ったより空いていた。
俺たちは窓際の席に座り、一番安いハンバーグセットとドリンクバーを頼んだ。
テーブルの上には、鬼島さんの名刺。
それだけで、ただのファミレスの机が少しだけ打ち合わせの場みたいに見えた。
もちろん、実際には制服姿の高校生二人が、安いハンバーグをつついているだけだ。
「まず、方向性だな」
料理が来る前から、慧はノートを開いていた。
落ち込んでいたはずなのに、もう目が動いている。
こういうところは、本当に切り替えが早い。
「鬼島さんが言ってたのは、文字を減らすこと。あと、『ラッシュ』向けにするなら、もっと王道に寄せた方がいい」
「王道?」
「友情、努力、勝利。わかりやすい敵。わかりやすい成長。暗すぎないテーマ」
「急に教科書みたいなこと言い出したな」
「必要だろ。俺たちは勝ちに行くんだから」
そう言って、慧はすごい勢いでノートに書き始めた。
設定。
主人公。
敵。
ラスト。
俺は運ばれてきたハンバーグを食べながら、その様子を見ていた。
ペンの動きは速い。
さっきまで会議室で打ちのめされていた人間とは思えないくらい、慧の頭はもう次の話へ向かっていた。
でも。
その速さが、少しだけ嫌な予感にも見えた。
一時間後。
慧は一枚の紙を俺の前に差し出した。
「できた」
「早いな」
「『ラッシュ』向けに、かなり明るくした。台詞も減らしたし、展開もわかりやすい」
「どれどれ」
俺はその紙を受け取った。
読んだ。
読み終えた。
もう一度、最初から読んだ。
そして、紙をテーブルに置く。
「……どうだ?」
慧が少し緊張した顔で聞いてくる。
俺は正直に答えた。
「つまらない」
慧が固まった。
「は?」
「いや、つまらない」
「二回言うな!」
「だって、つまらないんだよ」
俺は紙を指で叩いた。
「確かにわかりやすい。暗くない。台詞も減ってる。『ラッシュ』っぽいと言えば、そうかもしれない」
「なら――」
「でも、神宮寺慧っぽくない」
慧は口を閉じた。
「お前が無理やり王道っぽくしようとして、尖ってるところを全部削った感じがする。これなら、別にお前じゃなくても書ける」
「……でも、鬼島さんは暗すぎるのは――」
「暗いのが駄目なんじゃないだろ」
俺は言った。
「漫画として読みにくいのが駄目なんだ。文字で説明しすぎるのが駄目なんだ。お前の話そのものが駄目って言われたわけじゃない」
慧は黙る。
俺は紙を裏返し、白い面を上にした。
「だから、いきなり完成した話を書こうとするな」
「え?」
「まずは大筋だけでいい。設定、主人公、ラストの引っかかり。それだけの大綱を何本か出してくれ」
「何本か?」
「ああ」
俺はドリンクバーの薄いコーラを一口飲む。
「その中から、一番絵にできるやつを選ぶ」
慧は目を細めた。
「絵にできるやつ?」
「そう。お前の頭の中で面白い話じゃなくて、漫画にした時に一番強いやつ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
少し前の俺なら、そんな言い方はできなかった。
でも、鬼島さんの言葉がまだ頭に残っている。
漫画は、ページをめくらせるもの。
文字を、画面にするもの。
「……なるほどな」
慧はしばらく紙を見ていた。
そして、ゆっくり笑った。
「つまり、俺は物語を投げる。お前がそれを画面にできるか判断する」
「そういうこと」
「面白そうじゃん」
慧の目が、また光り始めた。
「任せろ。大綱なら、いくらでも出してやる」
「言ったな」
「言った」
その顔を見て、俺は少しだけ安心した。
さっきの無理に明るくした王道より、今の顔の方がずっと神宮寺慧らしかった。
◇ ◇ ◇
次の日から、俺たちの学校生活に新しい習慣が増えた。
休み時間になるたび、慧が俺の席に来る。
そして、無言で数枚の紙を置いていく。
「読め」
「命令形やめろ」
「読んでください」
「急に丁寧にするな。気持ち悪い」
紙には、慧が考えた新しい大綱が書かれていた。
反乱する人工知能。
感情を奪われた未来都市。
呪いを売る少年。
死者から手紙が届く郵便局。
怪談を食べる退魔師。
どれも、それなりに面白かった。
でも、決定打がない。
壮大すぎる。
説明が多すぎる。
短編に収まらない。
絵にした時、最初の数ページで読者を掴めない。
俺は読み終えるたび、首を横に振った。
「駄目」
「どこが?」
「世界観がでかすぎる。短編で説明したら、たぶん台詞だらけになる」
「くそっ」
次の休み時間。
「これは?」
「設定はいいけど、ラストが弱い」
「ぐっ」
昼休み。
「これは!?」
「主人公の目的がぼやけてる」
「うおおおおお!」
「叫ぶな。弁当の卵焼きが落ちる」
慧は毎回悔しそうな顔をした。
けれど、やめなかった。
むしろ、打ち返すたびに球が速くなっていく。
授業中、先生が黒板に向かっている間、慧はノートの端に新しい設定を書いていた。
俺も教科書の下に隠した紙を読み、余白に小さくメモを入れる。
ここは絵にできる。
ここは説明が重い。
このラストは悪くない。
でも、主人公が弱い。
まるで、目に見えないキャッチボールをしているみたいだった。
慧が投げる。
俺が受ける。
受けられないものは、地面に落とす。
それでも、慧は次を投げてくる。
気づけば、俺の机の中には、ボツになった大綱の紙が何十枚も溜まっていた。
けれど、その紙束が厚くなるほど、不思議と焦りは薄れていった。
俺たちは、何もしていないわけじゃない。
ちゃんと探している。
俺たちが勝負するための一本を。
◇ ◇ ◇
その日の放課後も、俺の机には数枚の紙が置かれていた。
教室には、俺一人だけが残っている。
夕陽が窓から差し込み、机の影を長く伸ばしていた。
部活へ向かう生徒たちの声が、廊下の向こうから遠く聞こえる。
俺は紙を一枚ずつ読んだ。
面白い。
けれど、違う。
惜しい。
でも、まだ足りない。
そんな感覚を何度も繰り返すうちに、指先が紙の端をめくる速度まで鈍っていった。
これじゃない。
また、これでもない。
俺たちは、本当に見つけられるのか。
鬼島さんが言った「熱」を、ちゃんと漫画にできる一本を。
最後の一枚に手を伸ばす。
紙は、他のものより少しだけ乱暴に折られていた。
タイトル欄には、慧の雑な字でこう書かれている。
『死の一分前』
最初にその文字を見た時、指が少し止まった。
死の一分前。
それだけで、頭の中に何かが浮かびそうになった。
まだ、はっきりとは見えない。
でも、紙の奥に強い引っかかりがある。
俺は大綱を読み進めた。
一行。
また一行。
読み終える頃には、胸の奥が妙に熱くなっていた。
暗い。
危ない。
『ラッシュ』向きかと言われると、まだわからない。
でも、画面がある。
それだけは、はっきりわかった。
これは、無理に明るくした慧の話じゃない。
神宮寺慧の中にある、少し危なくて、少し暗くて、それでもページをめくらせる何かが、そのまま出ている。
教室の後ろのドアが開く。
慧が入ってきた。
どうやら、ずっと廊下で待っていたらしい。
「……どうだ?」
声は平静を装っていた。
でも、自動鉛筆を握る指に力が入りすぎている。
緊張しているのが丸わかりだった。
俺は紙を机に置く。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「慧」
「……おう」
俺は、机の上の紙を指で叩いた。
「この『死の一分前』……超面白い!」
その瞬間、慧の目が大きく開いた。
次の瞬間。
「おおおおおおおおおおっ!!」
教室に、慧の叫び声が響いた。
さっきまで必死に平静を装っていた顔が、一気に崩れる。
慧は両手で拳を握りしめ、今にも机を叩きそうな勢いで身を乗り出した。
「だろ!? だよな!? この話、絶対いけるよな!?」
「ああ。設定の引きが強い。画面も浮かぶ。これなら勝負できる」
「よっしゃああああ!」
慧はその場で小さく跳ねるように拳を振った。
「この話、実は俺の自信作なんだよ! 暗すぎるかと思って一瞬迷ったけど、やっぱこれだよな!? 俺も書いてる途中で、これ来たって思ったんだよ!」
「来てる」
俺はもう一度、はっきり言った。
「これは来てる。今までの大綱とは違う」
そう口にした瞬間、自分の胸の奥まで熱くなった。
この話には、引きがある。
この話には、見たい画面がある。
何より、俺の手が勝手にネーム用紙を探していた。
「よし!」
俺は鞄を掴んで立ち上がった。
「今から俺の家に来い」
「え、今から?」
「今からだ。熱が冷める前に形にする」
慧は一瞬だけ呆けたあと、すぐに獰猛なくらいの笑みを浮かべた。
「……いいねえ。そうこなくちゃな」
「ああ」
俺は紙を丁寧に折り、ファイルに入れた。
「これをネームにする」
空っぽになりかけていた教室に、俺たちの足音だけが響いた。
窓の外では、夕陽が校舎の影を赤く染めている。
ようやく見つけた一本。
白紙の向こう側で、まだ形にもなっていない漫画が、俺たちを待っていた。




