第4話 現実の第一ページ
電話がつながった瞬間、俺の舌は完全に絡まった。
『はい。週刊少年ラッシュ編集部です』
受話口の向こうから聞こえてきた低い声に、俺は思わず背筋を伸ばす。
「あ、あの……もしもし。えっと、その」
隣で慧が、俺の顔をじっと見ている。
やめろ。
そんな期待に満ちた目で見るな。
余計に喋れなくなる。
「あの……漫画の、持ち込みをしたくて」
『持ち込みですね。お名前を伺ってもよろしいですか?』
「は、はい。藤原蒼介と、神宮寺慧です」
俺は相手に見えるはずもないのに、何度も頷いた。
『お二人ですね。では、明日の午後五時はいかがでしょうか』
「明日の午後五時……はい、大丈夫です」
『それでは、受付でお名前をお伝えください』
「わ、わかりました。よろしくお願いします」
通話が切れた瞬間、俺は大きく息を吐き出した。
手のひらが汗でぐっしょり濡れている。
背中まで少し冷たかった。
「……取れた?」
机の前に座っていた慧が、椅子をくるりと回してこちらを見る。
いつも通りの顔をしているつもりなのだろう。
けれど、肩がわずかに強張っているのがわかった。
こいつも、緊張している。
「取れた」
俺は机の上に置いた茶封筒に、そっと手を置いた。
中には、俺たちが二十一日かけて描き上げた三十一ページの原稿が入っている。
「明日の午後五時。『週刊少年ラッシュ』編集部」
声に出した瞬間、胸の奥が熱くなった。
俺たちが一緒に作った、初めての原稿。
その原稿を、本物の漫画編集者に見てもらう。
ただそれだけのことなのに、まるで世界の扉が少しだけ開いたような気がした。
「明日か」
慧が小さく呟く。
「ああ」
「……早いな」
「自分で行くって言っただろ」
「そうだけど」
慧は少しだけ黙ったあと、にやりと笑った。
「最高じゃん」
その笑い方を見て、俺もつられて口元が上がった。
怖い。
でも、それ以上に。
楽しみで仕方なかった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
俺たちは約束の時間より三十分も早く、出版社のビルの前に着いてしまった。
ガラスと鉄骨でできた大きな建物。
見上げるだけで首が痛くなる。
入口の自動ドアからは、社員証を下げた大人たちが次々と出入りしていた。
スーツを着た人。
大きな封筒を抱えた人。
電話をしながら足早に歩いていく人。
その全員が、俺たちよりずっと「本物」に見えた。
「……ここか」
俺は茶封筒を抱え直し、喉を鳴らした。
「日本の少年漫画の最前線……」
「急に実況するな」
「いや、でもさ」
慧は目を輝かせながら、ビルを見上げている。
「ここから、あの『ラッシュ』が作られてるんだぞ。俺たちが毎週読んでる漫画も、全部ここを通ってるわけだろ。熱いだろ」
「熱いけど、足が震えてきた」
「早いな」
「お前は震えてないのかよ」
「震えてる」
「震えてるのかよ」
「でも、熱い」
慧は胸を張った。
「これは俺たちが業界を獲りに行く第一歩だ。堂々と行こうぜ」
こいつのこういうところは、本当に腹が立つ。
怖がっていないわけじゃない。
緊張していないわけでもない。
それでも、前に進む時だけは、馬鹿みたいにまっすぐだ。
「……そうだな」
俺は深く息を吸った。
そして、慧と並んで、自動ドアをくぐった。
広いロビー。
高い天井。
光を反射する床。
壁には『週刊少年ラッシュ』の人気連載作品のポスターが並んでいる。
その全部が、俺たちを見下ろしているように感じた。
俺たちは受付へ向かった。
「す、すみません」
声が少し裏返った。
「五時に持ち込みの予約をしている、藤原と神宮寺です」
受付の女性は、慣れた様子で端末を確認した。
「藤原様、神宮寺様ですね。確認いたしました。こちらのゲストカードを首からお下げください。担当の者が参りますので、そちらのソファでお待ちください」
「あ、ありがとうございます」
俺たちはゲストカードを受け取り、ロビーの端にあるソファへ腰を下ろした。
目の前には、巨大なポスター。
今月の『ラッシュ』で巻頭カラーを飾っている大人気連載だった。
プロの絵。
プロの構図。
プロの線。
昨日まで自信満々だったはずなのに、ロビーにいるだけで、自分たちの原稿が急に小さく見えてくる。
「なあ」
慧が小声で言った。
「何だよ」
「編集者って、どんな人が来ると思う?」
「さあ」
俺は茶封筒を抱えたまま、無理やり口を動かす。
「黒いスーツで、サングラスかけてて、気に入らない原稿をその場で破るタイプとか」
「それ出版社じゃなくて取り立て屋だろ」
「じゃあ、お前は?」
「俺はもっとこう……黒いコーヒー飲みながら、難しい顔で『君たちの魂は、まだ紙の上で呼吸していない』とか言うタイプだと思う」
「それはそれで嫌だな」
「でも、ちょっと言われてみたくない?」
「言われたくない」
そんなくだらない話をしていると、少しだけ呼吸が楽になった。
けれど、約束の時間の五分前。
頭上から声が降ってきた。
「藤原さんと神宮寺さんですね」
俺たちは同時に顔を上げた。
そこに立っていたのは、細身の男性だった。
整ったスーツ。
きっちり結ばれたネクタイ。
細いフレームの眼鏡。
首から社員証を下げ、手にはクリップボードを持っている。
表情はほとんど動いていない。
冷たい。
その一言が、最初に頭に浮かんだ。
「あ、は、はい!」
俺は反射的に立ち上がる。
慧も慌てて立ち上がった。
さっきまで「業界を獲りに行く」とか言っていたくせに、隣を見ると顔が少し引きつっている。
「こちらへどうぞ」
男性は必要最低限の言葉だけを残し、すぐに歩き出した。
俺たちは顔を見合わせる。
「……なあ、蒼介」
慧が、俺にだけ聞こえる声で呟いた。
「何だよ」
「俺も、ちょっと緊張してきた」
「今さらかよ」
俺はそう返したものの、喉はからからだった。
茶封筒を抱え直し、俺たちはその編集者の背中を追った。
その時の俺たちは、まだ知らなかった。
この小さな第三会議室で、俺たちが初めて、現実に殴られることになるなんて。
◇ ◇ ◇
第三会議室には、紙をめくる音だけが響いていた。
俺と慧は、テーブルの向こう側で背筋を伸ばして座っている。
編集者は、俺たちの原稿をものすごい速さで読んでいた。
一ページ。
また一ページ。
表情はほとんど変わらない。
眉が少し動いた気もする。
けれど、それがいい意味なのか悪い意味なのか、まったくわからない。
俺の膝の上で、手のひらに汗がにじむ。
慧も黙っていた。
いつもなら何か余計なことを言い出すはずの口が、今はしっかり閉じられている。
数分後。
編集者は最後のページを読み終え、原稿を机の上に置いた。
そして、組んだ指の上に顎を乗せるようにして、俺たちを見る。
「絵は上手いですね」
その一言で、俺は一瞬だけ息を吐きそうになった。
けれど。
「ただ、漫画には向いていません」
次の言葉が、胸を真っ直ぐ突き刺した。
「……え」
声が漏れる。
編集者は、俺の反応には構わず、原稿の一ページを開いた。
「一コマ一コマの完成度を上げようとしすぎています。画面が重い。全部のコマで読者を止めてしまっている。これは漫画というより、イラストを並べている印象に近いです」
頭が真っ白になった。
絵は、俺の武器だった。
俺が唯一、自信を持てるものだった。
それなのに。
「漫画は、ページをめくらせるものです。大事なのは、一枚の絵を見せることではなく、読者の視線を流すことです。見せるコマと、流すコマ。その差がないと、読んでいて疲れます」
返す言葉が出てこない。
編集者は、今度は別のページを開き、慧の方を見る。
「それから、話も文字が多すぎます」
慧の肩が、わずかに動いた。
「設定はわかります。台詞で説明したいこともわかります。ただ、これは漫画です。小説ではありません。読者は、全部を言葉で説明されたいわけではない」
編集者の指が、密集した吹き出しの上で止まる。
「本当に必要な台詞だけを残してください。画面で伝えられるものまで文字で説明すると、漫画としての力が弱くなります」
慧は何も言わなかった。
膝の上で、拳を強く握っている。
俺はそれを横目で見ながら、何もできなかった。
さっきまで胸の中にあった自信が、音を立てて崩れていく。
俺たちは、いけると思っていた。
この原稿なら、プロにだって届くかもしれないと、本気で思っていた。
でも、目の前の編集者は、当然のように言った。
まだ届いていない、と。
「全体としては、勢いはあります」
編集者は原稿を閉じた。
「ただ、今のままでは掲載レベルには遠いです。新人賞に出しても、厳しいでしょう」
その言葉は、思っていたより静かだった。
怒鳴られたわけじゃない。
馬鹿にされたわけでもない。
ただ、事実として置かれた。
だからこそ、痛かった。
その時。
編集者の胸ポケットで、スマホが震えた。
彼は画面を確認し、表情をわずかに変えた。
「失礼」
電話に出る。
「はい。……え? 先生がいない?」
声の温度が変わった。
「アシスタントも連絡が取れない? 明日締切ですよね。……わかりました。今すぐ向かいます」
通話を切った編集者は、立ち上がった。
「すみません。担当作家の方で緊急対応が入りました」
彼は俺たちを見る。
「君たちの課題は明確です。絵は減らすこと。話は言葉に頼りすぎないこと。基礎はありますから、そこを意識して描いてみてください」
「あ、はい……」
「本日はありがとうございました。退室時は、ドアを閉めておいてください」
それだけ言って、編集者は足早に会議室を出ていった。
ドアが閉まる。
会議室には、俺たちだけが残された。
冷房の音が、やけに大きく聞こえた。
机の上には、俺たちの原稿。
ついさっきまで、俺たちの全能感そのものだった三十一ページが、急にただの紙束に見えた。
「……行こうぜ」
慧が、掠れた声で言った。
「ああ」
俺も立ち上がる。
足元が、少しふらついた。
原稿を茶封筒に戻すことすら忘れて、俺たちはそのまま第三会議室を出た。
◇ ◇ ◇
出版社のビルを出る頃には、空は少し赤くなり始めていた。
俺たちは何も話さなかった。
さっきまで大きく見えていたビルが、今はただ冷たい壁の塊みたいに見える。
駅へ向かう途中、小さな公園があった。
俺たちは、どちらからともなくそこへ入り、ベンチに腰を下ろした。
ブランコが風で少しだけ揺れている。
遠くで、子供の声が聞こえた。
「……俺たち、調子に乗ってたのかな」
俺は地面を見ながら言った。
靴の先に、小さな砂がついている。
「まあな」
慧はあっさり言った。
「否定しろよ」
「いや、調子には乗ってただろ」
「……そうだけど」
腹が立つくらい正しい。
俺たちは、本気で思っていた。
この原稿ならいける。
プロにも届く。
『ラッシュ』の連載陣にだって、いつか追いつける。
でも、最初の一歩でわかった。
俺たちはまだ、漫画の入口にすら立ったばかりだった。
「絵は上手い。でも漫画には向いてない、か」
俺は自嘲気味に笑った。
「刺さったな」
「刺さったどころじゃない。まだ抜けてない」
「俺もだよ」
慧は膝の上で手を組んだ。
「文字が多すぎる。小説じゃない。画面で伝えろ」
その声には、いつもの軽さがなかった。
「……悪かった」
「何が」
「俺の話のせいで」
言った瞬間、慧がこちらを睨んだ。
「は?」
「いや、だって。文字が多いって言われたし」
「馬鹿か、お前」
「馬鹿って何だよ」
「俺の話が悪いなら、お前の絵だって悪いだろ」
「喧嘩売ってるのか?」
「違う。どっちも悪いって話だ」
「余計悪いわ」
慧は息を吐き、空を見上げた。
「でも、どっちも直せるってことだろ」
俺は横顔を見る。
「お前、もう立ち直ったのか?」
「立ち直ってねえよ。普通にへこんでる」
「へこんでる顔じゃない」
「へこんでる時ほど、考えるしかないだろ」
慧はベンチから立ち上がった。
夕陽が、その顔を赤く染める。
「喂、蒼介」
「何だよ」
「お前、まさかこれで諦めるとか言わないよな?」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
諦める。
そんな選択肢は、確かに今、一瞬だけ頭をよぎった。
自分たちはまだ全然足りない。
プロの世界は思っていたよりずっと遠い。
早川に読ませるどころか、編集者にすら届かなかった。
でも。
ここで終わったら、何のためにあの三十一ページを描いたんだ。
何のために、あの部屋で何度も言い合ったんだ。
何のために、俺はもう一度ペンを握ったんだ。
「……言うわけないだろ」
俺は立ち上がった。
「ここで諦めたら、男じゃねえだろ!」
慧の目が、一瞬だけ丸くなる。
それから、にやりと笑った。
「いいじゃん。その台詞、主人公っぽい」
「茶化すな」
「茶化してねえよ。半分くらいは」
「半分は茶化してるじゃねえか」
それでも、少しだけ笑えた。
不思議だった。
現実に殴られたばかりなのに。
俺たちはまだ、完全には折れていなかった。
「じゃあ、決まりだな」
慧が拳を握る。
「欠点はわかった。絵は減らす。文字も減らす。漫画として読める形にする。あの編集者に、次こそ認めさせる」
「ああ」
「まずは原稿を持って帰って、全部見直しだ」
「そうだな」
俺は頷いた。
そして、次の瞬間。
慧の顔が、固まった。
「……あれ?」
「何だよ」
「原稿」
「原稿?」
俺は自分の手元を見る。
何も持っていない。
茶封筒もない。
あの三十一ページが入った、分厚い茶封筒がない。
血の気が引いた。
「……おい」
「……蒼介」
「お前、持ってないのか」
「持ってない」
「俺も持ってない」
沈黙。
風で、ブランコがきい、と鳴った。
次の瞬間、俺たちは同時に叫んだ。
「原稿、会議室に忘れたああああああ!!」
◇ ◇ ◇
同じ頃。
『週刊少年ラッシュ』編集部の廊下を、一人の青年編集者が歩いていた。
ぼさぼさの髪。
目の下の濃いクマ。
片手には紙コップのコーヒー。
もう片方の手には、資料の束。
彼は疲れた顔であくびをしながら、第三会議室の前を通りかかった。
半開きのドア。
誰もいない会議室。
その机の上に、茶封筒から少しだけはみ出した原稿が置きっぱなしになっている。
「……ん?」
青年編集者は足を止めた。
中に入り、机の上の原稿を見る。
表紙には、手書きのタイトル。
それから、作者名。
藤原蒼介。
神宮寺慧。
「持ち込みの原稿かな」
彼は何となく一ページ目をめくった。
最初は、ただ忘れ物を確認するだけのつもりだった。
けれど。
二ページ目。
三ページ目。
その目が、少しずつ細くなる。
紙コップを置く。
資料の束も、机の端に置く。
そして、彼は立ったまま、原稿を読み進めた。
最後のページまで読み終えた時。
彼の眠そうだった目には、はっきりとした光が宿っていた。
「……へえ」
青年編集者は、原稿の最後に書かれた連絡先を確認する。
それから、スマホを取り出した。
◇ ◇ ◇
公園で原稿を忘れたことに気づいた俺たちは、完全に取り乱していた。
「終わった! 人生終わった!」
「落ち着け蒼介! 原稿忘れただけで人生は終わらない!」
「編集部に忘れ物する新人なんているか!」
「ここに二人いるだろ!」
「何の励ましにもなってない!」
今すぐ出版社へ戻ろう。
そう決めて、走り出そうとした時だった。
慧のスマホが鳴った。
知らない番号。
俺たちは同時に固まった。
「……出ろよ」
「お、おう」
慧は緊張した顔で通話ボタンを押した。
焦っていたのか、なぜかスピーカー通話になった。
『もしもし。神宮寺慧さんの携帯で合っていますか?』
少し掠れた、けれど落ち着いた男の声だった。
「は、はい! 神宮寺です!」
『突然すみません。僕は『週刊少年ラッシュ』編集部の鬼島といいます』
俺と慧は、同時に目を見開いた。
編集部。
鬼島。
知らない名前。
けれど、その声は、さっきの冷たい編集者とは違っていた。
『第三会議室に、原稿を忘れていかれましたよね』
「す、すみません! 今すぐ取りに戻ろうとしていて!」
『ああ、いえ。怒っているわけではありません』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『少し、読ませてもらいました』
心臓が跳ねる。
慧も息を止めている。
『正直、問題は多いです』
その一言に、俺は思わず肩を落としかけた。
けれど。
『でも、面白いところもありました』
空気が変わった。
『特に十五ページ目。あの見開きは、少し驚きました』
十五ページ目。
俺と慧が、深夜一時まで揉めたページだ。
主人公が初めて自分の弱さを認め、それでも前に進もうとする場面。
何度も描き直した。
何度も台詞を削った。
最後には、ほとんど表情と沈黙だけにした。
そのページを。
この人は、見てくれた。
『もしまだ近くにいるなら、もう一度編集部まで戻ってきてもらえませんか』
鬼島という編集者は、静かに続けた。
『少し、話をしてみたいです』
俺と慧は顔を見合わせた。
さっきまで地面に叩きつけられていた胸の奥に、もう一度火がつく。
「行きます!」
慧が叫ぶように言った。
「今すぐ戻ります!」
『では、第三会議室で待っています』
通話が切れた。
数秒間、俺たちは動けなかった。
公園の風が、頬を撫でる。
さっきまでただ冷たかった夕方の空気が、急に熱を帯びたように感じた。
「……聞いたか、蒼介」
「ああ」
「面白いところもあるってさ」
「ああ」
「戻るぞ」
「言われなくても」
俺たちは同時に地面を蹴った。
出版社のビルは、さっきより少し遠くに見えた。
でも、もう足は重くなかった。
現実に殴られた。
俺たちの自信は、粉々に砕かれた。
それでも。
砕かれた破片の中に、まだ光っているものがあると、誰かが言ってくれた。
だったら。
その光が本物なのか、確かめに行くしかない。
俺たちは、夕焼けの街を全力で走った。




